モラルハザード(もらるはざーど)情報システム用語事典

moral hazard / 道徳的危険 / 人為的危険事情

» 2009年02月16日 00時00分 公開
[@IT情報マネジメント編集部,@IT]

 一定期間継続する取引において、事前に利益や負担などに関する一方の条件が固定されたとき、事後に反対給付に当たる行為や義務などを行う側の経済主体が初期の期待に反して、自身に有利なように行動を変更すること。“情報の非対称性”が支配する経済に見られる社会現象である。

 契約や制度によって事前に支払いや負担、補償の金額などに関する条件を取り決めたとき、事後に行動する側の経済主体はその制度・契約があるが故に損得の計算が変わり、自身の行動を変更した方が有利になる場合がある。

 例えば「損害保険に加入したので、事故防止の注意をしなくなった」「医療保険に加入しているので、できるだけ病院に行った方が得だ」「賃金が固定給なので、仕事の手を抜いた方が得である」「社会保障が充実しており、就業しなくても問題がない」「預金保証や公的救済があるので、大きなリスクを取った方が得である」といった行動変化がそれである。

 火災保険であれば、被保険者(保険加入者)は保険の加入によってリスクが小さくなるため、火災発生を予防しようという努力の水準が低下する。5000万円の建物を持つオーナーがいた場合、保険に加入していないときには火災で全焼すれば損害額は5000万円だが、保険加入で5000万円の保険金が期待できるときは損害はほぼゼロになる。損害ゼロが期待できるならば追加の予防策――例えば、火災報知機や防火設備の設置を行う意欲は限りなく低くなるだろう。支払われる保険金が対象の建築物の価値以上の金額であれば「燃えてしまった方がよい」というのが合理的判断となり、場合によっては火事を装ったり、実際に放火したりといった非倫理的な行動さえ誘発しかねない。すなわち、保険加入という行動が被保険者の事故発生時の損害額を変えるため、予防に対する行動が変わり、それが事故(火災)の発生確率を変えるのである。

 保険とは、保険者(保険会社)が事故事象の発生確率を推定して、そこから将来の保険金支払額を賄うことのできる保険料率を設定することで成立する。火災保険ならば、被保険者(保険加入前)の一般的な事故回避行動を前提に自然な火災発生確率を想定して保険料率を定めるが、保険によって被保険者が事故回避的でなくなったり、故意や不注意で火災の発生確率が高まるとすれば、保険金支払額が想定額を超えてしまう。

 損害保険や生命保険の分野では、本来は被保険者のリスクを低下(分散)させるための保険が加入者の事故防止のインセティブを小さくし、逆に保険事故発生のリスクを高める現象が見られることが古くから指摘されてきた。これを放置すると保険が成り立たないため、保険制度設計における大きな課題であった。

 また、医療・健康保険のように費用負担が一定額であったり、利用するほどに割安になったりする場合、利用者は過剰に便益を受けようとするインセンティブが働く。固定給の労働契約では働いても働かなくても報酬の額が変わらないので、できるだけ労働・サービスの量や質を落そうというインセンティブが働く。

 こうしたセーフティネットやリスクヘッジの制度あるいは契約自体が、加入者や利用者、労働者などの経済主体の利得条件を変えてしまい、制度が期待する行動とは矛盾する行動を誘発する現象モラルハザードと呼ぶ。「倫理の欠如」と訳されることもあるが、必ずしも反道徳的行動や違法行為を指すわけではなく、自身の利益を追求する合理的な判断・行動が社会全体にとっては望ましくない結果をもたらすことを示す言葉である。

 保険/リスクマネジメント用語としてのモラルハザードとは本来、「被保険者の性格や精神的態度、判断、習慣に起因する事故発生・損失拡大の要因」を指す。ハザードとは事故を起こしやすくしたり、被害を拡大させたりする損失発生確率の変動因子のことで、日本語では「危険事情」と訳される。モラルハザードの対語は「フィジカルハザード」で、これは火災保険ならば建物の建築構造や用途、建築素材など、医療保険ならば被保険者の体質や潜在的疾病などをいう。

 古くはヒューマンハザードということもあったが、保険金の不正奪取が主題と考えられたためか、19世紀には英国などでモラルハザードという言葉が使われるようになった。近年ではパーソナルハザードという名を提案する向きもある。生命保険ではモラルリスクという場合もある。

 このモラルハザード(広義)をさらに詳細に分類して、「被保険者の故意、悪意による危険事情」をモラルハザード(狭義)とし、「やる気のなさ、無関心、不注意、過失による危険事情」をモラールハザード(morale hazard)、「最大限の努力をしたものの、判断の誤りによる危険事情」をヒューマンエラー・ハザードあるいはジャッジメント・ハザードとする分類も見られる。

 当初は保険用語だったモラルハザードは、1960年代になると保険や社会保障といった制度に内在する本質的な現象であることが指摘され、経済学の分野で用いられるようになる。モラルハザードを経済学の問題として最初に取り上げたのは、ケネス・J・アロー(Kenneth Joseph Arrow)だった。アローは1963年、アメリカンエコノミックレビュー誌に「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care」という論文を発表し、医療保険の普及が医療サービス需要の増大を招くと述べ、これが非対称情報の下で発生するインセンティブ問題であることを指摘した。

 アローの問題提起はやがて“情報の経済学”を生み出し、モラルハザードの問題は「保険加入者−保険会社」に加えて、「労働者−雇用者・管理者」「経営者−株主」「事業会社−投資家・金融機関」といった、エージェント問題(プリンシパル−エージェント問題)と結び付いて、大きな発展を遂げる。

 情報の経済学ではモラルハザード発生の原因を、“情報の非対称性”に求める。情報の非対称性は、情報の取得や探索に費用が掛かるために市場では必然的に発生するとされる。例えば、保険であれば監視対象(被保険者)の数が膨大で、かつ被保険者は不利な私的情報を開示するインセンティブを持たないため、保険会社が被保険者の情報を収集するのには莫大なコストが掛かる。コーポレート・ガバナンスであれば今日の経営者は専門性が高く、これをモニタリングする要員を用意するのが困難であるなどの問題である。

 従ってモラルハザードの防止には、情報の非対称性を是正する効率的・効果的な制度の設計が欠かせない。保険であれば「支払い保険金額の限度設定」(損害を無制限に補償するのではなく一定割合でカバーする、一部自己負担にする)、「危険選択」(事前調査/過去履歴によるリスク回避的被保険者の選別と優遇)、「保険調査・免責」(保険事故発生後の調査、免責条項による保険金額の減額)などの施策が導入されてきた。経営問題であれば、完全な固定給ではなく業績に応じた報酬や昇進を加味するといった対策があろう。

 モラルハザードという言葉は、日本では1998年に経営不振・破たんした金融機関や住宅金融専門会社への公的資金注入、預金の全額保証などの政策を巡って、一般に知られるようになった。この時期、多くの金融機関が不良債権問題を抱え、破たんの危機にあったが、金融機関の倒産は取り付け騒ぎや連鎖倒産による金融システムの崩壊、さらには大きな社会不安を誘発する恐れがあるため、政府は預金者を保護の観点から預金の全額保護を打ち出していた。

 政府が預金保証を行うと、預金者は経営不振の銀行であっても引き出して他行に預け替えるインセンティブが小さくなるため、その銀行はリスクが取れるようになる。すると、不良債権(銀行にとってはリスク資産)処理が遅れ、最終的な公的負担が膨らむ危険がある――という文脈で「モラルハザード」の語が登場した。

 しかし、公的資金(税金)による私企業(銀行)救済に反対する立場から銀行経営者の経営倫理の欠如、自己規律の喪失を指摘する声が大きくなり、これを「モラルハザード」と表現する使用例が多く見られた。

参考文献

▼『戦略的思考の技術――ゲーム理論を実践する』 梶井厚志=著/中央公論新社・中公新書/2002年9月

▼『非対称情報の経済学――スティグリッツと新しい経済学』 藪下史郎=著/光文社・光文社新書/2002年7月

▼『モラル・ハザードは倫理崩壊か』 田村祐一郎=著/千倉書房/2008年5月

▼『伊賀隆先生学長退任記念論集』 学校法人中内学園 流通科学大学/2004年2月

▼『リスクマネジメントと企業倫理――パーソナルハザードをめぐって』 中林真理子=著/千倉書房/2003年11月

▼『組織の経済学』 ポール・ミルグロム、ジョン・ロバーツ=著/奥野(藤原)正寛、伊藤秀史、今井晴雄、西村理、八木甫=訳/NTT出版/1997年11月/(『Economics, Organization & Management』の邦訳)


Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

注目のテーマ