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ボーカロイド教育版と「プログラミング的思考」は“AIリテラシー”を育むかものになるモノ、ならないモノ(74)

文部科学省が小学生向けの「プログラミング教育」で使い出した「プログラミング的思考」とは何なのか。国算理社といった既存教科で養えるものなのか。AI時代を見据えた教育はどうあるべきか。本稿では、音楽の授業における「ボーカロイド教育版」の利用例なども紹介しつつ、10年後、20年後の日本を担う小学生向けのプログラミング教育について考えてみたい。

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 小学・中学・高校生の授業でプログラミングを必須としなさい――2016年に閣議決定された「日本再興戦略 2016」(いわゆるアベノミクスの成長戦略)にこのような意味の文言が盛り込まれた。それから1年余が経過した現在、進展状況が気になる。また、教育現場への導入に向けた課題なども浮き彫りになっているであろう。本稿では、音楽の授業における「ボーカロイド教育版」の利用例なども紹介しつつ、10年後、20年後の日本を担う小学生向けのプログラミング教育について考えてみたい。

 @ITの読者であれば、「言語は何を教えるのか」などという、現実的な疑問が真っ先に脳裏に浮上したことであろう。だが、政府のいう「プログラミング教育」とは、コーディングの授業を行うことではなく、「プログラミング的思考」を育むことだという。では、プログラミング的思考とは何で、それを身に付けることでどのような効果が期待できるのであろうか。それに関する考察は後述するとして、まずは、プログラミング教育必須化の背景を押さえておこう。


ヤマハとポニーキャニオンが協業した、ボーカロイド教育版によるプログラミング教育を取り入れた授業の様子。詳細は後述

 高齢化と人口減少による国力の低下を懸念する政府は、何とかして労働生産性を維持しようと「一億総活躍社会」「働き方改革」「人づくり革命」など、近年「人」に着目し政策を声高に叫ぶようになった。その中には、人材育成など、教育も重要な要素として含まれている。

 その中で、10年後、20年後を見据えた教育施策の1つとして、2020〜2021年度に予定されている学習指導要領の改定において、プログラミング教育の強化を盛り込んでいる。学習指導要領の改定については、2017年春頃に、社会科の教科書において「聖徳太子」を「厩戸王」に、「鎖国」を「幕府の対外政策」に書き換えるといった変更案に賛否両論が巻き起こったことで、ご記憶の方もいよう。

既存の教科の中でプログラミング教育を実施

 プログラミング教育強化の中で最大の注目点は、小学生向けのプログラミング教育が新たに追加された点である。また、これまでも実施されていた中学や高校においても、さらに強化された内容が盛り込まれている。端的に言うと、ITに強い生産性の高い人材を育てるために小学生のときからプログラミングに慣れ親しもうという話である。

 IT分野では、GAFA(ガファ=Google、Apple、Facebook、Amazon)といった米国発のプラットフォーマー支配の進行に危機感を抱いている政府(事実、経済産業省の報告書にGAFAに対する危機感が明記されている)だけに、「10年後、20年後に日本を背負う小学生や中学生に、何としても、ITに強くなってもらいたい」ということであろう。逆に言うと、IT人材が育たなければ、この国の経済の先行きが暗くなることを意味している。

 実際には、「国語」「算数」という既存教科以外に「プログラミング」という授業が追加されるわけではない。「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)」という文部科学省の文書を読むと、既存の教科の中でプログラミング教育を実施するとある。算数や理科といった教科においてプログラミングを盛り込んだ授業を行うということだ。

 ただし、どの科目でどのように実施するかは、各学校や教員が決める必要がある。最近、多忙化による教員の負担増が問題になっているようだが、この上、専門外のプログラミング教育まで、しかも、既存教科に取り入れることまで考えなければならないというのは、何ともお気の毒という印象だが、逆の見方をすると、授業内容を柔軟に構築できるわけで、コンピュータに強い先生などは、腕の見せどころになるのかもしれない。

 そうなると、国語や社会といった、おおよそプログラミングとは無関係と思える教科に、プログラミング教育をどうのように取り入れるのかという疑問もあろう。だが、前出の文部科学省の文書には、(1)総合的な学習の時間、(2)理科、(3)算数、(4)音楽、(5)図画工作、(6)特別活動という6教科についてのみ、授業に盛り込む際の指針というか、方向性が示されているので、現実的には、全ての教科が対象というわけではなく、取り入れ対象の教科は、現場での判断に委ねられることになるようだ。

「プログラミング的思考」の育成とは何か?

 さて、そこで登場するキーワードが冒頭で示した「プログラミング的思考」の育成である。プログラミング的思考は、「論理的思考」と言い換えることができそうだ。というのも、文部科学省は、次のように明記している(「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について」から抜粋)。

「プログラミング的思考」は、急速な技術革新の中でプログラミングや情報技術の在り方がどのように変化していっても、普遍的に求められる力であると考えられる。また、特定のコーディングを学ぶことではなく、「プログラミング的思考」を身に付けることは、情報技術が人間の生活にますます身近なものとなる中で、それらのサービスを受け身で享受するだけではなく、その働きを理解して、自分が設定した目的のために使いこなし、よりよい人生や社会づくりに生かしていくために必要である。言い換えれば、「プログラミング的思考」は、プログラミングに携わる職業を目指す子供たちだけではなく、どのような進路を選択しどのような職業に就くとしても、これからの時代において共通に求められる力であると言える。

 要は、「コンピュータやスマートフォンといった情報機器をブラックボックス状態で、受け身で使うのではなく、その仕組みや動作原理くらいは理解しておこうよ、そうすることで、プログラミング的思考が身に付くかもしれない。こういった思考方法は、プログラマーだけではなく、これからの時代、他の職業でも必要になるよ」と言いたいのだろう。

 この文書は、「プログラミング教育に関する有識者会議」の議論を文部科学省がまとめたものなのだが、「霞が関文学」とでもいうのか、とても漠然とした言い回しに終始しており、これを渡された教育現場は、さぞ困惑するだろうなあ、と思う。ただ、さすがに文部科学省もこの「理念」だけを並べた文書の実践を現場に丸投げするようなことはしていない。例えば、「プログラミング教育実践ガイド」といった実例集を公開している。iPadやScratchなど利用デバイスやソフトウェアはもとより、実際の授業の進め方に関して、写真や図解入りで解説している。とても楽しそうだ。一読をお勧めする。

ボーカロイド教育版でオリジナル曲を作詞作曲

 今回紹介するボーカロイド教育版を使った事例も音楽の授業における「プログラミング的思考」という文脈で取材した。

 2017年の夏休み中、開発主体であるヤマハとメジャー音楽レーベルのポニーキャニオンがコラボレーションして「こどもミュージックプログラミング教室」という小学生向けの教室を開催した。Windowsのタブレット端末にインストールしたボーカロイド教育版を使い、夏休みをテーマにしたオリジナル曲を作詞作曲してみよう、という授業だ。授業の進行を写真で紹介する。


紙で配布された作詞カードに歌詞を埋める。9個のブロック(小節に相当)に区切られた8つのマス(音符に相当)に1文字ずつ書き込むが、1ブロック目はイントロ用に空白にしておく。右上の「アウフタクト」の意は、前の小節にメロディの冒頭が食い込んで始まること

歌詞の内容をイメージしながら、メロディーラインの大まかな抑揚を考えて、波状の線を引く

作詞カードを見ながら歌詞を入力する。カードの1ブロックがボーカロイドの1小節に該当する

あらかじめ写真のような伴奏アレンジがプリセットされているので好みのアレンジを選ぶ

ピアノロール画面でメロディーを入力する。文字を入れ、音程と長さを指定する。ボカロの音声は、キャラクター感の希薄なVY1(女性の声)が採用されている

出来上がった曲をみんなに発表する

手順をルールに従って進めると、一定の成果物が得られるという感触

 この授業内容でプログラミング的思考が身に付くのかどうかは、何とも判断の分かれるところであろう。ただ、作曲というエモーショナルな創作過程に、今回授業で利用した各種ツールが介在することで、創作活動においても、フローチャート的な概念(=論理的な思考)が存在し、その手順をルールに従って進めることで、一定のまとまりのある成果物が得られるという感触を体験させることには成功しているようだ。

 ただ、その一方で、クリエイティブの萌芽を摘む(かもしれない)懸念も目の当たりにした。けんた君(仮名)という子は、夏祭りの体験を小節のブロック区切りを意識することなく自由奔放に言葉をつづっていた。「おっ、このまま進むと8分の13拍子や8分の11拍子のメロディが展開するアバンギャルドな曲が出来上がるかもしれない」と楽しみに見ていたのだが、個別に回ってきたインストラクターにしっかりと直されていた。

 ボーカロイド教育版というツールが基本的に8拍子での作曲を前提としていることもあり、音楽教育という観点から見たら訂正は当然の流れなのであろう。ただ、ルールを無視した自由な発想をそのまま行動に反映させたら、どうなるかという結果を、身をもって体験することもありなのかと思った次第だ。まあ、部外者の無責任な見方であることは重々承知しているのだが……。


ヤマハ 新規事業開発部 SES事業推進グループ 主事 玉井洋行氏

 ヤマハの玉井洋行氏は、「ボーカロイド教育版は、当初、創作ツールとして教育現場に提案したものだが、文部科学省からの打診もあり、現在は、音楽の授業におけるプログラミング教育用のツールとしての面も打ち出している」と言う。これは筆者の勝手な想像だが、文部科学省の側でも、音楽にどのようにしてプログラミング教育を取り入れるのか悩んでいたのではないか。そんな悩める官僚にとって、ボーカロイド教育版は、渡りに船と映ったのかもしれない。

 下図の左側は、プログラミング的思考の例として課題解決時の手順と歌づくりのプロセスをフローチャートで示したものである。我田引水な後付け感は否めないが、チャートにして過程を分解すると共通点が多いのも確かだ。ただ作曲というものが、感情の発露を言葉や音に変換するという情緒的な作業の積み重ねによって進行するだけに、全てこのチャートの通りに進むものではないのは、容易に理解できるだろう。


課題解決と歌づくりのプロセスをフローチャートで示すと意外に共通点が多い(ヤマハのパンフレットから引用)

 ただ、授業を参観して感じたのは、小学生の段階では「プログラミング的思考」などと大上段に構える必要はないのではないか。コンピュータが自分で指定したように動作したり、ルールに従ってコンピュータを操作したりすることで一定の結果が得られる、といった、全体の流れを肌で感じる程度で十分なのではないかと思った。

 同じデジタルデバイスでも、ゲーム機やスマートフォンでゲームを操作するだけならそれは、単なるブラックボックスにすぎないが、ボーカロイドのように、汎用的な作曲ツールとして用意された機能を利用して、創作活動を行うことで、その仕組みに一歩踏み込んだ形で関わる、それが重要なポイントなのだろう。

 加えて玉井氏は「Scratchといった画面内で動作することを目的とした専用のプログラミング学習ツールとは異なり、『作品』という形で成果物が残る点も先生や児童に喜ばれている」と、ボーカロイド教育版のメリットを強調していた。

「教養」と「ジョブトレーニング型教育」の線引きを明確にする

 今回、ボーカロイドの授業を参観しながら、この子たちが社会に出る10年後、20年後の世界はどうなっているのだろうかと考えてしまった。IT分野のライターだけに筆者の頭の中には、第4次産業革命、IoT、AI(人工知能)といったキーワードがうごめいたわけだが、筆者ならずとも、文部科学省の文書(「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について」)にも同じような文言が並び、このような変革の時代を見据えた教育はどうあるべきかが議論されている。

 筆者は、そんな文書内の1文に目が止まった。「いわゆる『第4次産業革命』は教育に何をもたらすのか」と題した段落に「学校教育が目指す子どもたちの姿と、社会が求める人材像の関係については、長年議論が続けられてきた」とある。これは、資本社会での教育における永遠のテーマのようにも思えるのだが、「日本の労働人口の約49%が、技術的には人工知能等で代替可能に」(野村総合研究所のレポート)といった予測も登場するこれからの社会において、ますます重要なテーマになっているのではないか。

 おそらく、今後は、「教養」と「ジョブトレーニング型教育」の線引きをもっと明確にしていく必要があるのだろう。「人づくり革命」などという看板を掲げ、労働人口の減少下においても、生産性を引き上げ、日本経済を底上げしようともくろむこの国だけに、ジョブトレーニング型教育の必要性は重要性を増す。

 それがどのような形態になるのか分からないが、スマートフォンを操作すれば、Googleや人工知能から容易に回答を得られるこれからの時代においては、課題を読み解き問題を解決する力、ならびに選択肢を示されて的確に判断する力が求められることになるのだろう。いくら人工知能が発達しても、最終的な判断を下す行為とその判断に対して責任を持つ行為は、人間が負うことになるからだ。

 例えば、レベル4の完全自動走行を実現した自動車が死亡事故を起こした場合、遺族に謝罪するのが、クルマの所有者になるのか、メーカーになるのか、システムの設計者になるのかは分からない。ただ、遺族の心情として、人工知能に合成音声で謝罪されても納得できないことは確かだ。

 まあ、これは極端な例ではあるが、これからの時代、提示された情報を読み解いて課題に立ち向かい、的確に判断を下し、責任を取る能力が重要視される。言うなれば、ITリテラシー転じて“AIリテラシー”である。そのためには、感情に流されていては判断を見誤る。論理的思考を脳内で高速に回せる能力が不可欠となる。従って文部科学省が提唱する「プログラミング的思考」という方向性には大いに賛成だ。

 とはいえ、だから「教養」は不要だ、といった二極論で語れるほど教育というのは単純な話ではない。若い頃、短い期間だったが、留学と称して米国でブラブラ遊んでいた折、日本の文化や社会、歴史的な知識をおろそかにしていた自分を恥じる場面もあった。ちょっと大げさに言うと、教養に裏打ちされていないアイデンティティーや自信は、砂上の楼閣のように脆いものだと悟った。日本人が世界に出ていく場合はもちろん、今後、国内においても、労働力などの面で外国人の流入が増加するであろう環境において、日本人としての教養は、人格形成の土台を成すものだ。

 「プログラミング教育」って何だろうか、という疑問から始まった今回の取材だが、子どもたちが自分で作った曲をプレゼンする際の表情を見ていると、変革の時代を生き抜かなければならないことに対する彼らへのシンパシーと、彼らなら明るい日本の未来を築いてくれるに違いないという確信に近い思いが、複雑に交錯するのであった。

著者紹介

山崎潤一郎

音楽制作業を営む傍らIT分野のライターとしても活動。クラシック音楽やワールドミュージックといったジャンルを中心に、多数のアルバム制作に携わり、自身がプロデュースしたアルバムが音楽配信ランキングの上位に入ることもめずらしくない。ITライターとしては、講談社、KADOKAWA、ソフトバンククリエイティブといった大手出版社から多数の著書を上梓している。また、鍵盤楽器アプリ「Super Manetron」「Pocket Organ C3B3」などの開発者であると同時に演奏者でもあり、楽器アプリ奏者としてテレビ出演の経験もある。音楽趣味はプログレ。

TwitterID: yamasaki9999


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