成瀬は、山手線に3周も乗った日から3日間、会社を休んだ。
大塚も赤城も、そして神崎も、成瀬はちょっとしたストレスから山手線に3周も乗ってしまっただけで、すぐに仕事に戻るだろうと考えていたのに、3日も休むなんて何かあったのだろうかと首をかしげていた。
そして3日目。西村総務部長が1通の手紙を手にして赤城法務部長の部屋を訪れた。
西村 「赤城くん、ちょっとこの手紙を見てくれ」
赤城 「おや、このご時世に封書ですか。何だか、風情がありますね」
西村 「そんな悠長なものじゃない。内容証明郵便だよ」
赤城 「え? 内容証明郵便!?」
西村 「そう。差出人は、成瀬美知代。知ってるだろう、去年成瀬くんと結婚した元大塚チームの子だよ」
赤城 「ええ、知ってます。……すると、中身は鬼河原さんに関することですか?」
西村 「そうだ。とうとう鬼河原くんの問題が表面化した……ってとこだ。まずは目を通してくれ」
内容証明郵便の中で成瀬美知代は、自分の夫に対する鬼河原の仕打ちを具体的に列挙して、それを「パワーハラスメント」であると糾弾し、そのために夫は頭痛と微熱のためにここ3日間寝込んでいると述べていた。
そして、会社として鬼河原のパワーハラスメントに対してしかるべき処置を取るよう要請し、何ら善処されない場合には、夫が鬼河原およびグランドブレーカーに対して不法行為責任を追及することになる、と結んでいた。
西村 「どうかね、赤城くん」
赤城 「いやぁ、彼女は奥さんとして家庭に収まっているのはもったいないような気がしますね。実によく書けている。感心しますよ」
西村 「そんな感心はいいから、法的にはどうなんだ?」
赤城 「セクハラは男女雇用機会均等法に定められているから、いわば公式の定義があるわけですが、パワーハラスメントはまだ法律に定められていませんから、セクハラのような公式の定義はありません。でも、一般的には上司の立場に基づいて業務上の必要性の範囲を超えて、部下の人格を否定する言動を継続的に取ることが、いわゆるパワーハラスメントを構成すると認識されています。彼女の手紙では、鬼河原さんの言動がそれらの要件に該当しているということを、実に要領よくまとめていますよ」
西村 「ふーん、なるほどね。ここに書かれてあることが事実なら、確かに鬼河原くんは成瀬くんのことをバカにし続けてきたことになるなぁ……。でも、不法行為責任を追及するってのは、どういうことなんだ? セクハラみたいに法律に定められていないんなら、法的責任は追及できないんじゃないのか?」
赤城 「不法行為責任というのは、他人の財産権、身体、生命、名誉などを侵害した者はその損害を賠償する責任を負うという代物なんですよ。パワーハラスメントは、いわば部下の名誉を侵害しているわけで、その結果、部下に体調を崩すなどの損害が生じていれば、部下は上司に損害賠償請求をすることができるんですよ」
西村 「ふ〜ん、そうなんだ……。でも、それは上司に対してだけなんじゃないのか? 何で成瀬くんは、鬼河原くんだけじゃなく会社に対しても追及するなんていえるんだ?」
赤城 「それがいわゆる使用者責任てやつですよ。事業を行うために従業員を雇っている会社は、その従業員が他者に損害を与えた場合には、その損害を賠償する責任を負うんです。つまり、わが社は、わが社の従業員である鬼河原さんが成瀬くんに与えた損害を賠償し得る責任を負うことになるんですよ」
西村 「てことは、もし裁判になったら、鬼河原くんもウチの会社も負けるってことか?」
赤城 「まぁ、成瀬くんの方も、この手紙に書いてある事実が本当に存在したことについて立証責任を負いますから、事はそんなに簡単に運ばないでしょうが、われわれの立場が極めて弱いというのは確かですね」
西村 「そうか。……どうしたものかねぇ」
赤城 「鬼河原さんの言動は、数年前から、パワーハラスメントじゃないかって問題視されてきましたよね。でも、会社としては事なかれ主義というのは酷かもしれませんが、できれば面倒なことは避けたいという気持ちがあったんじゃないですか?」
西村 「う〜ん、それはあったかもしれないな」
赤城 「事ここに至っては、もう知らん顔はできないと思うんですよ。この内容証明郵便は会社に対する正式な抗議であり要請です。しかも、内容証明郵便が送られてきたという事実は、必ず社内に知れ渡ると思うんです。ここで会社が何の行動も取らなければ、従業員は会社を信頼しなくなりますよ」
西村 「つまり、従業員の信頼に応えるというコンプライアンス行動指針に反する……ということだな」
赤城 「ええ」
西村 「……では、どう対応したらいいだろうかねぇ」
赤城 「まずは事実確認です。この手紙を鬼河原さんにじかに読ませて彼の認識を聞き取ること、そして、鬼河原チームのメンバーと面談して、この手紙の記述が事実かどうか聞き取ることが必要ですね。その上で、社長、人事部長、サービスグループ部長も交えて、鬼河原さんへの対処を決めるべきでしょうね」
美知代 「もしもし、かんちゃん?」
神崎 「おお、みっちゃん、どうしたの? 成瀬さんは元気?」
美知代 「ええ。おかげさんで頭痛も治まって熱も出ないから、明日から出社する予定よ」
神崎 「そりゃよかった」
美知代 「昨日、赤城さんと西村さんがわざわざウチまで来てくれて、会社として鬼河原さんをチームマネージャから降ろして人事部付マネージャにし、鬼河原チームのメンバーと業務は大塚さんがそのまま引き継ぐことに決めたって説明してくれたわ。それを聞いたらウチの人、頭痛も治りましたって……。ゲンキンなものよねぇ」
神崎 「いやぁ?、それにしても、思い切ったことをしたもんだよね」
美知代 「内容証明郵便のこと?」
神崎 「そう」
美知代 「そうねぇ、確かに手紙を出す前はちょっと迷ったけど、でも、誰かがいわなきゃ、会社も鬼河原さんも変わらないじゃない?」
神崎 「ま、今回はみっちゃんのお世話になったけど、現役のおれたちが行動を起こすのが本当なんだろうな」
美知代 「そうよ。第二の鬼河原さんが出現しないように、頼んだわよ!」
【次回予告】
鬼河原マネージャにパワハラを受けた成瀬くん。
赤城も説明していましたが、パワハラに関する明確な法律はないのですが、被害者の精神的苦痛は見逃すことができるものではありません。次回は、この話の中に「どんなコンプライアンスの問題が潜んでいるのか」を、筆者が分かりやすく丁寧に解説します。なお、次回は5月22日に掲載予定です。お楽しみに。
▼著者名 鈴木 瑞穂(すずき みずほ)
中央大学法学部法律学科卒業後、外資系コンサルティング会社などで法務・管理業務を務める。
主な業務:企業法務(取引契約、労務問題)、コンプライアンス(法令遵守対策)、リスクマネジメント(危機管理、クレーム対応)など。
著書:「やさしくわかるコンプライアンス」(日本実業出版社、あずさビジネススクール著)
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