
入社早々、シリコンバレーへの渡航を決断
2010/6/2
1987年、東大工学部を卒業した漆原氏は沖電気工業株式会社(以下、沖電気)に入社する。配属されたのは、ミニコンのソフトウェア開発を行っている部署。当時、沖電気のミニコンはハードウェアもOSも自社内で開発していた。同氏はこの部署で、具体的にどのような仕事に携わっていたのだろうか?
「OSのカーネルの中のデバイスドライバなどを開発していました。フロッピーやハードディスクなどの装置を制御するプログラムですね。あとは、もろもろのツール類の開発も行っていました。例えば、“copyコマンド”のようなOSのコマンドラインツールなどですね」
まさに、ずっとやりたいと思い続けてきた「コンピュータを作る」仕事に就けたわけである。さぞかし、充実した日々ではなかったのだろうか?
「開発現場での仕事は、面白かったですね。それに、諸先輩方が非常に優秀だったので、『どうやったらこの人たちに追い付けるのだろうか?』と日々考えていました」
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そこで取った行動が、また何とも漆原氏らしい。何と、当時台頭しつつあったUNIXのカーネルのソースコードをすべて読み、内容をほぼ理解してしまったのである。しかも、特に会社から命令されたわけではなく、すべて自主的にやったことである。「それぐらいのことをしないと、先輩方に勝てないと思ったんです」
こうしてミニコンのソフトウェア開発に従事しつつ、UNIXの研究を独自に進める。そんな日々を2年ほど送った後、同氏はある1つの結論に達する。
「もう、ミニコンの時代ではない」
これからは、UNIXを中心としたオープン系の技術が主流になる。独自プラットフォームのミニコンは、これに取って代わられる。そう確信したのだ。
ちょうど漆原氏がUNIXへの興味を深めていた1980年代後半は、シリコンバレーを中心にUNIXの世界が目まぐるしく動いた時代でもあった。AT&TがUNIXのライセンス提供を開始し、各メーカーが自社のハードウェア上にUNIXを搭載した商品を開発・販売し始めていたころだ。一方で同じ時期、カリフォルニア大学バークレー校で開発されたBSD系UNIXもこの時期に大きく発展することになる。後にエンタープライズUNIXの市場を席巻することになるサン・マイクロシステムズが台頭してきたのも、ちょうどこの時期だ。
当時、こうした動きを逐一リアルタイムに追っていた漆原氏が、「いつまでもミニコンをやっている場合ではない」と焦りを強く感じ始めたのは、ある意味自然なことだったといえよう。そのころのことを振り返って話す漆原氏の熱心な口ぶりから、当時のUNIXへの傾倒ぶりがうかがえる。
「AT&TのSystem V Releaese3や、3B2コンピュータだとか、そういうのを見ていると、『どう見ても、ミニコンよりこっちだろう。なぜこっちをやらないのか?』と思いましたね。すごい連中が作ったものを、皆が使いたがっている。これは当然、近いうちにメインストリームになるはずだと確信しました」
最先端を常に追い続けてきた。最先端のことをやりたくて東大の工学部に入り、そして沖電気に入った。そしていま、コンピュータの世界の最前線は、UNIXの総本山であるシリコンバレーにあるらしい。当然、漆原氏はアメリカ西海岸の彼の地に思いをはせる……。
「カリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学にサン、アップル、ヒューレット・パッカード(HP)、ゼロックスパーク(パロアルト研究所)、DEC……。とにかく、コンピュータの最先端がシリコンバレーに集まっていたんです。一体そこには、どんな連中がいるのだろうと、気になって仕方がなかった」
最先端にとことんこだわり続けてきた漆原氏は、もう居ても立ってもいられなくなったに違いない。そして、決断する。
「これはもう、シリコンバレーに行くしかない!」
同氏が沖電気に入社してまだ3年目、1989年のことだった。そのころ日本国内はバブル景気の真っ只中、空前の好景気に沸いていた。
◇
この続きは、6月4日(金)に掲載予定です。お楽しみに!
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
挑戦者たちの履歴書 バックナンバー 連載インデックスへ»
- 第1回 最先端コンサル企業を率いる漆原氏の場合
- 第2回 完全な理系少年だった少年時代
- 第3回 ゲームがどうやって動いているのか知りたかった
- 第4回 勉強が面白くて東大を目指す
- 第5回 不意に現れたコンピュータへの道
- 第6回 物理に挫折し、PCに目覚める
- 第7回 でっかいスーパーコンピュータを作りたかった
- 第8回 東大の研究室は最先端ではなかった
- 第9回 研究職のオファーを蹴り、開発職へ
- 第10回 入社早々、シリコンバレーへの渡航を決断
- 第11回 入社3年目でシリコンバレーへ留学
- 第12回 あっさりと夢のシリコンバレー留学を実現
- 第13回 スタンフォードで友達を100人作る
- 第14回 思ったほどではなかったシリコンバレーと日本の差
- 第15回 帰国後、オープン系ミドルウェア市場を切り開く
- 第16回 標準策定ワーキンググループで鍛えられる
- 第17回 早期にサーバサイドJavaがくることを確信
- 第18回 真の顧客志向を目指すために起業する
- 第19回 まだほかに誰もやっていないSIを目指して
- 第20回 採用基準は、“1度は夢に破れていること”
- 第21回 成功していたビジネスモデルを大きく転換
- 第22回 お客さまが本当に喜ぶのは“熟成したワイン型”
- 第23回 ITエンジニアをあこがれの職業にしたい!
- 第24回 人生のターニングポイントは「部下・子ども・起業」
- 第25回 世界に勝てるグループウェアを作った男
- 第26回 一生忘れられない失敗は“ガンプラ”
- 第27回 シャアザクに挫折し、マイコンに目覚めた少年時代
- 第28回 野球やバスケに明け暮れた小中時代
- 第29回 生徒会長の経験が人生を大きく変える
- 第30回 ゲームプログラマへの道を真剣に目指した中学生
- 第31回 アルバイト経験で世の中をナメきってしまう
- 第32回 3日間寝ずにゲームをプレイし続ける
- 第33回 受験で気付いた自分の精神的もろさ
- 第34回 想像と違っていた阪大生活
- 第35回 ボランティアに没頭した大学4年間
- 第36回 1人の天才との出会いで人生が大きく狂う
- 第37回 バブル崩壊で希望職種に就けず
- 第38回 Notesを導入するも、利用されずに挫折を味わう
- 第39回 Webアプリケーションの可能性に取りつかれて創業
- 第40回 勝算はなくとも、若気の思い込みでカバー
- 第41回 肩すかしなほど順調な立ち上げ当初
- 第42回 急激に大きくなり過ぎて地獄の日々が待っていた
- 第43回 設立3年で異例のスピード上場を実現
- 第44回 順調に売れ続けたものの、行き詰る
- 第45回 社長に就任するも買収をほとんど失敗する
- 第46回 スーパーエンジニア集団=サイボウズ・ラボを設立
- 第47回 1度敗れた海外進出の夢をもう1度!
- 第48回 これからは大公開、グローバルの時代!
- 第49回 クラウドを日本に広めた第一人者
- 第50回 六本木ヒルズに住むSaaSの雄
- 第51回 “根拠のない自信”が大事
- 第52回 名作「火の鳥」に感化される
- 第53回 お釈迦様に夢でお告げを伝えられる
- 第54回 麻雀、ナナハンにハマった大学時代
- 第55回 IBMはFBI?
- 第56回 グラウンドでトンボの目を回す新人時代
- 第57回 “水金雀鬼”との対戦がサラリーマン人生を変える
- 第58回 驚異的な好成績を残す新人営業
- 第59回 ビジネスもITも、結局動かすのは人
- 第60回 “30歳で営業課長”の超出世
- 第61回 IBMの強みは充実した教育制度にあり
- 第62回 本当に感謝された阪神大震災時の対応
- 第63回 社長補佐を断った初めての男
- 第64回 都銀初のシステムアウトソースを実現
- 第65回 孫氏の熱意にIBM退職を決意
- 第66回 余計なひと言で、大混乱に巻き込まれる
- 第67回 運命的なタイミングでセールスフォースに出会う
- 第68回 謝りっぱなしのベニオフ氏
- 第69回 知名度ゼロの会社を認知させるためのワザ
- 第70回 “信頼感”こそが、躍進のカギ
- 第71回 日本にデータセンターを作る理由
- 第72回 クラウドで日本をもう一度元気な国に!
- 第73回 ITの発展史と共に生きた半生
- 第74回 “THE 昭和の下町”で育った少年時代
- 第75回 悪ガキが「フレーベル少年合唱団」に入ったら
- 第76回 「小学6年生」の表紙にスカウトされる
- 第77回 “若大将”に憧れて慶応を目指すも敗退……
- 第78回 なぜか心に残ったコロンビア館
- 第79回 フレーベル少年合唱団がキューピットに
- 第80回 ステンマルクの“追っかけ”をしていた大学時代
- 第81回 彼女を口説くために英語を必死に勉強する
- 第82回 猛勉強の原動力は“彼女と結婚したい気持ち”
- 第83回 通信サービスに“ピンっと来て”就職
- 第84回 顧客のために個人的に2000万円を保証
- 第85回 急成長に次ぐ急成長で30代前半で社長に!
- 第86回 なって初めて分かった“社長の苦悩と孤独”
- 第87回 気付いたら泳いでいたのは25メートルプール
- 第88回 “日本における間接販売モデルの強固さ”を痛感
- 第89回 デルへの転職を蹴るほどほれた“Starfire”
- 第90回 いまでも心に残る“2000年問題と白ワイン”
- 第91回 転職初日に、“東京地裁からの出頭命令”
- 第92回 転職するたびに、会社が買収される
- 第93回 アキバ独特の雰囲気に面食らう
- 第94回 人生山あり谷ありで元に戻る
- 第95回 日本企業には“変わる勇気”が必要
- 第96回 これからの若者は絶対海外へ出るべき!
- 第97回 日本のインターネット黎明期を築いた未成年
- 第98回 乗り鉄で“一筆乗車”にハマった幼少時代
- 第99回 電気工作に明け暮れ、将来の夢は“エンジニア”
- 第100回 中学で同じ趣味のマニアに出会う
- 第101回 関西と関東の文化の違いにがくぜんとする
- 第102回 入学早々“校歌しばき”の洗礼を受ける
- 第103回 “三股”で多忙を極めた5年間
- 第104回 アキバで感動し、18歳でさくらを立ち上げ
- 第105回 “さくら”の由来に拍子抜け
- 第106回 マニアにターゲットを絞った戦略が功を奏す
- 第107回 “自転車操業”で、創業期を何とかしのぐ
- 第108回 一時の気の迷いで“受託の麻薬”に手を出す
- 第109回 従業員の給料をATMで自ら振り込む修羅場
- 第110回 弱冠27歳で東証マザーズ上場を実現
- 第111回 “郷に入れば、郷に従わず”に失敗
- 第112回 手を広げ過ぎて、上場後すぐに地獄へ
- 第113回 会社を救うため、数千万円の多重債務者に
- 第114回 インターネット企業ならではの乱高下
- 第115回 データセンターがダウンした年末
- 第116回 大口解約でもびくともしない経営体質へ
- 第117回 絶対的な競争力の源泉は“ライセンスコスト”
- 第118回 一番やりたいのは“無限にスケールできるPaaS”
- 第119回 奥さまは社員第一号
- 第120回 非連続的な成長で1000億円企業に
- 第121回 “王者IE”に挑み続けた反骨の母
- 第122回 とにかく頑固でわが道を行く少女時代
- 第123回 とことんやり、スパッと見切りをつける
- 第124回 雪深い地の伝統校に通った高校時代
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- 第126回 バスケにバイトにバンド、堪能した大学時代
- 第127回 不純な動機で選んだ就職先
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- 第131回 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
- 第132回 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
- 第133回 肌で感じた日米の“エンジニアへの待遇格差”
- 第134回 ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
- 第135回 “MOJIBAKE”を一般語化させる
- 第136回 結婚式の翌日には米国にとんぼがえり!
- 第137回 出産3時間前まで開発を続ける
- 第138回 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 第139回 “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 第140回 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- 第141回 苦心したコミュニティとの関係構築
- 第142回 Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 第143回 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
- 第144回 学生の内にオープンソースの世界を踏み台にしろ!
ホワイトペーパー(TechTargetジャパン)
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