
入社3年目でシリコンバレーへ留学
2010/6/4
常にコンピュータの最先端を追い続けてきた漆原氏。
東大工学部を卒業後、沖電気工業株式会社(以下、沖電気)に入社してミニコンのソフトウェア開発に従事するも、UNIXを知り、そして当時の最先端の研究がシリコンバレーで行われていることを知る。自分の目でどうしてもその最先端の姿を確かめたかった同氏は、ついにシリコンバレー行きを決意するに至る。1989年、同氏はまだ24歳の若さだった。
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当初は、会社を辞めて渡米しようと思っていた漆原氏だが、その前にまずは沖電気の社内留学制度に志願してみた。ところが意外なことに、これが認可される。沖電気に入社して、まだ3年目のことだ。
「普通は3年目の若造を海外に行かせるなんて、とても考えられない話です。これは、会社の上の方々にそれだけの度量があったのですね。当時自分自身では、生意気にも『行って当たり前だ』ぐらいに思っていましたけど、後になってからは、会社には本当に感謝しました」
また当時は沖電気はもちろん、世の中全体が「人に投資することの価値」を認めていたように思う、と同氏は続ける。何か面白そうな技術が世界のどこかで興っていたら、「若手でもいいから、分かりそうな人間を取りあえず張り付かせておけ」ということを、どのメーカーでもやっていた。
一方、それに比べて今日の状況はどうだろうか?
「本当は、いまの状況についてコメントできる立場ではないのですが」と前置きしながらも、漆原氏は次のように語る。
「わたしの偏見かもしれませんが、いまはみんなすぐ、『それはビジネス的にどうなのか?』『それは本当に儲かるのか?』といったことを言い出しませんか? 一昔前と比べると、世の中全体の風潮が短期的な利益ばかりを重視しがちになっているような気がします」
もちろん、こうした風潮はその時々の経済状況に大きく左右される。「100年に一度の不況」といわれる現在の不景気ぶりに比べて、1989年当時はバブル景気の絶頂期。その年の終わりには、日経平均株価が史上最高値の38915.87円をつけている。この時代、どの企業にも余裕があったのだ。当時を思い返しながら、漆原氏もこう語る。
「確かにあの時代は、何をやっても許されるような雰囲気があって、とても面白かったですね。要するに、やっぱりみんな余裕があったんですね、当時は」
こうして、当時若干24歳の漆原青年は、晴れてシリコンバレーへ渡ることになる。赴任先は、スタンフォード大学のコンピュータシステム研究所。留学はもちろんのこと、海外へ渡航するのも初めての経験。英語の勉強は嫌いで、これまでまじめに勉強したことがない。そんな状態で渡米することに、不安はなかったのか?
「まったくなかったですね。だって、目的ははっきりしていましたし、もう『行く!』って決めたんですから」
この行動力、フットワークの軽さは、さすがと言わざるを得ない。漆原氏は、行動の人なのだ。理系で頭が切れるタイプというと、研究室の中でひたすら沈思黙考しているステロタイプの人物を筆者などは思い浮かべてしまうのだが、同氏はむしろまったく逆のタイプだ。これまでの同氏の足跡を振り返ってみても、東大工学部への進学、メーカーへの就職、そして渡米……。「うだうだ考えている暇があったら、とにかく動く!」といった感じだろうか。
そして、今後おいおい紹介していくが、こうした持ち前の行動力はこの後ますます発揮されていくことになる。もちろん、漆原氏のこうした一見大胆に見える行動も、筆者のような凡人が思い付かないほど綿密な公算によって裏付けられているのだろうが……。
さて、漆原氏がシリコンバレーにおける身の置き所として選んだのが、前述の通りスタンフォード大学のコンピュータシステム研究所である。スタンフォード大学といえば、シリコンバレーのほぼ中心にキャンパスを構え、これまでIT業界の名だたる人物を輩出してきた名門中の名門である。
同校出身のIT業界のキーマンといえば、ヒューレット・パッカード(HP)の創始者であるウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカード、サン・マイクロシステムズ共同創始者のスコット・マクネリ、Yahoo!共同創始者のジェリー・ヤン、シスコシステムズ共同創始者のレン・ボサックとサンディー・ラナー、そしてGoogle共同創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン……と、枚挙に暇がない。「シリコンバレーは、スタンフォード大学出身者の学閥によって支配されている」と言う者もいるぐらいである。
漆原氏にとって、シリコンバレーでコンピュータの最先端を肌で感じ取るためには、これ以上はない環境だったといってもいいだろう。
◇
この続きは、6月7日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
挑戦者たちの履歴書 バックナンバー 連載インデックスへ»
- 第1回 最先端コンサル企業を率いる漆原氏の場合
- 第2回 完全な理系少年だった少年時代
- 第3回 ゲームがどうやって動いているのか知りたかった
- 第4回 勉強が面白くて東大を目指す
- 第5回 不意に現れたコンピュータへの道
- 第6回 物理に挫折し、PCに目覚める
- 第7回 でっかいスーパーコンピュータを作りたかった
- 第8回 東大の研究室は最先端ではなかった
- 第9回 研究職のオファーを蹴り、開発職へ
- 第10回 入社早々、シリコンバレーへの渡航を決断
- 第11回 入社3年目でシリコンバレーへ留学
- 第12回 あっさりと夢のシリコンバレー留学を実現
- 第13回 スタンフォードで友達を100人作る
- 第14回 思ったほどではなかったシリコンバレーと日本の差
- 第15回 帰国後、オープン系ミドルウェア市場を切り開く
- 第16回 標準策定ワーキンググループで鍛えられる
- 第17回 早期にサーバサイドJavaがくることを確信
- 第18回 真の顧客志向を目指すために起業する
- 第19回 まだほかに誰もやっていないSIを目指して
- 第20回 採用基準は、“1度は夢に破れていること”
- 第21回 成功していたビジネスモデルを大きく転換
- 第22回 お客さまが本当に喜ぶのは“熟成したワイン型”
- 第23回 ITエンジニアをあこがれの職業にしたい!
- 第24回 人生のターニングポイントは「部下・子ども・起業」
- 第25回 世界に勝てるグループウェアを作った男
- 第26回 一生忘れられない失敗は“ガンプラ”
- 第27回 シャアザクに挫折し、マイコンに目覚めた少年時代
- 第28回 野球やバスケに明け暮れた小中時代
- 第29回 生徒会長の経験が人生を大きく変える
- 第30回 ゲームプログラマへの道を真剣に目指した中学生
- 第31回 アルバイト経験で世の中をナメきってしまう
- 第32回 3日間寝ずにゲームをプレイし続ける
- 第33回 受験で気付いた自分の精神的もろさ
- 第34回 想像と違っていた阪大生活
- 第35回 ボランティアに没頭した大学4年間
- 第36回 1人の天才との出会いで人生が大きく狂う
- 第37回 バブル崩壊で希望職種に就けず
- 第38回 Notesを導入するも、利用されずに挫折を味わう
- 第39回 Webアプリケーションの可能性に取りつかれて創業
- 第40回 勝算はなくとも、若気の思い込みでカバー
- 第41回 肩すかしなほど順調な立ち上げ当初
- 第42回 急激に大きくなり過ぎて地獄の日々が待っていた
- 第43回 設立3年で異例のスピード上場を実現
- 第44回 順調に売れ続けたものの、行き詰る
- 第45回 社長に就任するも買収をほとんど失敗する
- 第46回 スーパーエンジニア集団=サイボウズ・ラボを設立
- 第47回 1度敗れた海外進出の夢をもう1度!
- 第48回 これからは大公開、グローバルの時代!
- 第49回 クラウドを日本に広めた第一人者
- 第50回 六本木ヒルズに住むSaaSの雄
- 第51回 “根拠のない自信”が大事
- 第52回 名作「火の鳥」に感化される
- 第53回 お釈迦様に夢でお告げを伝えられる
- 第54回 麻雀、ナナハンにハマった大学時代
- 第55回 IBMはFBI?
- 第56回 グラウンドでトンボの目を回す新人時代
- 第57回 “水金雀鬼”との対戦がサラリーマン人生を変える
- 第58回 驚異的な好成績を残す新人営業
- 第59回 ビジネスもITも、結局動かすのは人
- 第60回 “30歳で営業課長”の超出世
- 第61回 IBMの強みは充実した教育制度にあり
- 第62回 本当に感謝された阪神大震災時の対応
- 第63回 社長補佐を断った初めての男
- 第64回 都銀初のシステムアウトソースを実現
- 第65回 孫氏の熱意にIBM退職を決意
- 第66回 余計なひと言で、大混乱に巻き込まれる
- 第67回 運命的なタイミングでセールスフォースに出会う
- 第68回 謝りっぱなしのベニオフ氏
- 第69回 知名度ゼロの会社を認知させるためのワザ
- 第70回 “信頼感”こそが、躍進のカギ
- 第71回 日本にデータセンターを作る理由
- 第72回 クラウドで日本をもう一度元気な国に!
- 第73回 ITの発展史と共に生きた半生
- 第74回 “THE 昭和の下町”で育った少年時代
- 第75回 悪ガキが「フレーベル少年合唱団」に入ったら
- 第76回 「小学6年生」の表紙にスカウトされる
- 第77回 “若大将”に憧れて慶応を目指すも敗退……
- 第78回 なぜか心に残ったコロンビア館
- 第79回 フレーベル少年合唱団がキューピットに
- 第80回 ステンマルクの“追っかけ”をしていた大学時代
- 第81回 彼女を口説くために英語を必死に勉強する
- 第82回 猛勉強の原動力は“彼女と結婚したい気持ち”
- 第83回 通信サービスに“ピンっと来て”就職
- 第84回 顧客のために個人的に2000万円を保証
- 第85回 急成長に次ぐ急成長で30代前半で社長に!
- 第86回 なって初めて分かった“社長の苦悩と孤独”
- 第87回 気付いたら泳いでいたのは25メートルプール
- 第88回 “日本における間接販売モデルの強固さ”を痛感
- 第89回 デルへの転職を蹴るほどほれた“Starfire”
- 第90回 いまでも心に残る“2000年問題と白ワイン”
- 第91回 転職初日に、“東京地裁からの出頭命令”
- 第92回 転職するたびに、会社が買収される
- 第93回 アキバ独特の雰囲気に面食らう
- 第94回 人生山あり谷ありで元に戻る
- 第95回 日本企業には“変わる勇気”が必要
- 第96回 これからの若者は絶対海外へ出るべき!
- 第97回 日本のインターネット黎明期を築いた未成年
- 第98回 乗り鉄で“一筆乗車”にハマった幼少時代
- 第99回 電気工作に明け暮れ、将来の夢は“エンジニア”
- 第100回 中学で同じ趣味のマニアに出会う
- 第101回 関西と関東の文化の違いにがくぜんとする
- 第102回 入学早々“校歌しばき”の洗礼を受ける
- 第103回 “三股”で多忙を極めた5年間
- 第104回 アキバで感動し、18歳でさくらを立ち上げ
- 第105回 “さくら”の由来に拍子抜け
- 第106回 マニアにターゲットを絞った戦略が功を奏す
- 第107回 “自転車操業”で、創業期を何とかしのぐ
- 第108回 一時の気の迷いで“受託の麻薬”に手を出す
- 第109回 従業員の給料をATMで自ら振り込む修羅場
- 第110回 弱冠27歳で東証マザーズ上場を実現
- 第111回 “郷に入れば、郷に従わず”に失敗
- 第112回 手を広げ過ぎて、上場後すぐに地獄へ
- 第113回 会社を救うため、数千万円の多重債務者に
- 第114回 インターネット企業ならではの乱高下
- 第115回 データセンターがダウンした年末
- 第116回 大口解約でもびくともしない経営体質へ
- 第117回 絶対的な競争力の源泉は“ライセンスコスト”
- 第118回 一番やりたいのは“無限にスケールできるPaaS”
- 第119回 奥さまは社員第一号
- 第120回 非連続的な成長で1000億円企業に
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- 第122回 とにかく頑固でわが道を行く少女時代
- 第123回 とことんやり、スパッと見切りをつける
- 第124回 雪深い地の伝統校に通った高校時代
- 第125回 宇宙工学を学ぶはずがなぜかバイオ方面へ
- 第126回 バスケにバイトにバンド、堪能した大学時代
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- 第131回 出戻り先の東芝で出会った運命の相手
- 第132回 社会貢献が開いたブラウザ活動への道
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- 第134回 ネスケ本社のいい加減なテスト方法に驚愕
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- 第137回 出産3時間前まで開発を続ける
- 第138回 聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート
- 第139回 “1人ネットスケープ”になっても衰えなかった製品愛
- 第140回 一度足を洗ったものの、再びブラウザの世界へ
- 第141回 苦心したコミュニティとの関係構築
- 第142回 Firefox成功の要因は“ブログの口コミ”
- 第143回 第二次ブラウザ戦争の先にあるものとは
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