“MOJIBAKE”を一般語化させる
2011/12/16
ネットスケープの日本法人にサポートエンジニアとして入社しながら、ひょんなことからシリコンバレー近郊にある米国本社の開発部門に常駐して働くことになった瀧田氏。英語はできないし、知り合いもいない。そんな“無い無い尽くし”の逆境下にあっても、同氏は持ち前の負けん気とタフネスさで、徐々に自らの進むべき道を切り拓いていった。
「私が所属していたのは、クライアント製品の国際化とローカライズを行う部署だったんですけど、当時はまだ製品の国際化の重要性が現場できちんと認識されていませんでした。なので、まずは国際化の重要性を皆で認識して、きちんとやりましょうという活動を行いましたね」
とはいえ、当時の瀧田氏の英語力は片言レベル。
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コミュニケーション手段といえば、片言の英語とプログラミング言語のほかには、ボディーランゲージのみ。込み入った事柄を説明する必要に迫られたときには、ホワイトボードにそれこそプログラミングの構文形式で、相手に伝えたい内容を書き出して説明した。さぞかし苦労が耐えなかっただろうと思いきや、当の瀧田氏自身は「英語ができなくても何とかなるさ、と思ってましたね! いまでは笑い話ですが、英語で説明する代わりに、本当にC言語で情報共有していたこともあります」と当時を振り返る。
「仕事ではもちろんのこと、生活上でもいろいろ苦労は絶えなかったんですけど、その中で1つ覚えたのが、とにかくまず『にこっ』と笑うこと。日本人って、赤の他人に対してあまり笑顔を見せないじゃないですか。でも、向こうの人はとにかく『にこっ』と笑えば、手を差し伸べてくれる人がいっぱい出てきます。そのことが分かってからは、外国人とのコミュニケーションのコツみたいなものが分かり始めましたね」
そんな調子で本社での仕事を何とかこなす一方で、何と日本法人の社員としての仕事も別に割り当てられていたと言う。
「日本法人のサポートエンジニアとしての問い合わせ対応業務も、並行してやっていました。なので、連日深夜まで作業していましたね」
米国ではずっとホテル暮らしで、日本の自宅でゆっくり寝ることができたのは年にほんの数日というハードな生活が続いた。
そんな瀧田氏の献身ぶりに、米国本社のスタッフも徐々に動かされていった。
そのころの瀧田氏の仕事ぶりを伝える面白いエピソードがある。文字化けの現象について本社のエンジニアに説明しようとしたときのこと。「『文字化け』って、英語で何て説明すればいいんだろう?」。迷った挙句、瀧田氏が採った方法が、日本語の読みと同じ“MOJIBAKE”(モジバケ)で通すことだった! 「いい? こういう現象のことをMOJIBAKEって言うの、MOJIBAKE!」。
この新語“MOJIBAKE”は、瀧田氏の存在感が高まるのと歩調を合わせるように社内で徐々に浸透していき、やがて一般用語としての地位を獲得するまでに至ったと言う。
また当時、日本におけるブラウザの市場が急速に伸びていたことも、瀧田氏を後押しした。1990年代後半といえば、Windows 95の発売で日本における第一次インターネットブームが起きた時期である。当然、ネットスケープ製品の日本市場における売り上げも急速な勢いで伸びていた。従って、日本語版の品質が上がり、売り上げが伸びれば、会社の収益も向上し、ひいては現場のエンジニアたちの待遇も良くなる。自ずと現場は、日本語版の品質を徐々に気に掛けるようになってくる。
また、当時シリコンバレーでは、ちょっとした日本語ブームが起きていたと言う。当時は、日本企業が数多くシリコンバレーに進出していたが、日本語ができればそうした企業で製品ローカライズの仕事にありつけるため、食いっぱぐれることがないからだ。
「私は本社で『Chibi』というニックネームで呼ばれていたんですが、当時は『Chibiの言うこと聞けば、私たちは日本での製品シェアを保てる』という風に周囲は見てくれるようになってきました。また、日本語を教えてくれと言ってくる人もいました。こういう風に、周囲の人たちが日本語を覚えたり、日本の文化を理解しようとしてくれたのは、単身で米国に乗り込んだ身としては、とてもうれしかったですね」
◇
この続きは、12月19日(月)に掲載予定です。お楽しみに!
早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。
その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。
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