“変化”は外からやってくる(前編)何かがおかしいIT化の進め方(39)(3/3 ページ)

» 2008年11月10日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]
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傲慢と怠惰で身を滅ぼす日本

 1980年代、日本の労働者の給与水準は西ドイツに次ぐ世界最高水準となっていた。「Japan As No.1」(注1)といわれ、“As”を“Is”と誤解してはしゃぎ、傲慢になり、そして怠惰になっていった。 その後、1985年のプラザ合意(注2)の結果、海外資金の日本国内への還流が起こり、また円高による輸出減による不況を懸念して低金利政策を採ったため、市場に“マネー”がだぶつき、土地・株への投機バブルが発生した。国内産業はこのあだ花に沸き返り、庶民はディスコで大フィーバーした。

 その裏では、円高による輸出不振が続く中、コスト低減に骨身を削る輸出産業が、製造拠点の大々的な海外移転や部品の海外調達に踏み出し、その結果、国内産業の空洞化が急速に進んだ。

 「Japan As No.1」とは、わずか数十社の製造業やその関連企業だけに当てはまる言葉であった。国際競争力を飛躍的に向上させ、日本が必要とする食料や資源、エネルギーを購入するための外貨のほとんどは彼らが稼ぎ出していた。高賃金を謳歌した国内サービス産業の多くは生産性が低く、国際競争力は付いていなかった。そして残念ながら、こうした構造はいまだに続いている。

 そして1990年、バブルははじけ、多額の不良資産を抱えて金融機関は瀕死の状態となり、日本経済は多くの国内サービス産業と共に長期にわたり低迷することになる。


注1: 米国人、エズラ・F・ヴォーゲルによる著書名(1979年、TBSブリタニカ刊)。当時、日本国内でも70万部を超えるベストセラーとなった。日本の発展を支えたあらゆる制度・仕組みを学び、そこから得られた教訓を米国民に向けて説いたもの。手放しの“日本礼賛論”ではない。

注2: 1985年、米国の呼び掛けにより、当時のG5(日・米・英・独・仏の先進5か国)がニューヨーク・プラザホテルに集い、米国の対外貿易赤字を是正するため、各国がドル安に向けて為替市場に協調介入することに合意した。


歴史は繰り返すか

 江戸時代末期、黒船来航を受けて、しぶしぶ国を開いた日本は、明治維新で西欧文明を積極的に取り入れた。そして富国強兵策を取った40年後、実はそれ以上戦争を行えないほど疲弊していながらそうと知らされず、「大国ロシアとの戦いに勝利した」と国民は有頂天になったが、その後、政府や軍部の国際社会における立ち回りの拙さや、実力不相応の企てによって、第2次世界大戦への道にずるずるとはまり込んでいく。

 そして1945年、国を焦土と化して第2次世界大戦に敗戦し、そのどん底から立ち上がった40年後には「Japan As No.1」とおだてられてバブルに踊る。そこからまた下り坂を転がり始めて20年、日本はグローバライゼーションという“黒船の来航”に、いまだに右往左往している。

 「己を知り、敵を知る」ことが、問題解決の大前提のはずなのだが、「日本は、もはや経済一流国ではない」と、本音の発言をした経済財政担当大臣は各方面から批判を浴び、具体的な成長施策を示すことなく「日本には底力がある」という政治家に人気が集まる。他国をけなし、日本の優秀さだけを説く書籍が書店にならぶ。危険な兆候だ。

 すでに、中国は「強くなれば脅威、混乱しても脅威」という大きな存在になってしまっている。その対処の方法を、本当に、真剣に考えなければならない隣国なのだ。しかも、日本企業が国内競争に明け暮れている間に、韓国や台湾の企業はグローバル市場で力をつけ、中には日本が遅れを取っている分野も出始めているのである。

米国の反撃(1)〜規制緩和による競争力強化〜

 では、1970〜80年代に日本に追い込まれた米国が、その後どのような道を歩んだのか、文化的に関連性が深い英国の歩みをからめて、その歴史を振り返ってみたい。

 1980年代、英国サッチャー首相、米国のレーガン大統領はそれぞれ、行政、税制、教育、規制緩和・撤廃など、“小さな政府”の実現に向けて多面にわたる改革を行った。「日本のリーダーにはここまで非情に徹してやり遂げる気力があるだろうか」「日本国民ならこれほどの荒療治を許すだろうか」というほどの内容であった。

 例えば、サッチャーは、強硬な姿勢で抵抗する炭鉱労働者のストライキには、鉱山の閉鎖という荒っぽい手段で労働組合を敗北に追い込み、レーガンは軍や退役軍人を動員して航空管制官のストライキつぶしを行ったうえ、ストに参加した管制官をブラックリストに載せて再就職もできないようにし、恐怖政治とまで呼ばせた。

 そのかいあって両国とも経済成長は回復したが、代償として一部の強者と多数の弱者を発生させるという新たな社会問題を生む結果となった。また、米国では減税と激増した軍事費により、巨大な財政赤字と消費拡大による膨大な貿易赤字を残したが、貿易相手国が得たドルで米国債を買わせるという仕組みを作り、ドルの還流を図った。

 英国は、長年の財政赤字、インフレと労働組合のストライキに悩んでいたが、サッチャーは鉄鋼から通信にいたる国営企業の民営化を断行した。インフレ抑制のために不況の中で金利を引き上げ(注3)、財政赤字の改善のために増税策を採った。このため一時的にはさらに失業率が上昇したが、やがてインフレは終息し経済も回復した。

 ただ、シティ・オブ・ロンドン(ロンドンの金融街の名称)は国際金融センターとして息を吹き返したが、伝統的な産業であった自動車業界は崩壊した。多数のワーキング・プアーが生まれ、教育や医療に大きな問題が生じた。もともと社会主義的考えの強い英国では、後の政権がこれらの問題の修復に力を注がざるを得なくなった。

 米国では、徹底した規制緩和のもとで産業のリ・ストラクチャリングが進んだ。同一業種間の競争は熾烈を極めた。例えば航空業界では、名門のナショナル・フラッグ・キャリアが姿を消し、アメリカン航空など、SIS(戦略情報システム)で名をはせた国内線大手の航空会社がトップに躍り出たのも束の間、徹底した顧客サービスと低コスト経営、格安運賃を経営戦略とする新興会社に破産、あるいはその寸前にまで追い詰められた。金融分野では、銀行と証券会社の垣根が取り払われ、規制改革と市場原理主義が強化されていった。これが米国経済の活況に結び付き、その後のバブル経済と現在の金融システム破綻の一因ともなった。

 規制緩和による徹底した競争の中で、持てる力を強みに集中しなければ競争に生き残れないと、多くの企業は「選択と集中」戦略を徹底的に推進した。弱い事業は撤退・売却し、強い事業はさらなる強さを求めて、強いもの同士で合併を行った。しかし、自動車などスケール・メリットを求める企業の国際間提携や合併は、必ずしも期待どおりというわけには行かなかったようだ。

 イノベーション(革新)が企業間競争をさらに加速した。栄枯盛衰がいちだんと激しくなった。かつての名門コンピュータメーカーだったハネウエルの名前をご存じの読者は、いまどのくらいいるだろうか。かつての王者、IBMにもいまや昔日の面影はない。ITが先端技術としてもてはやされた時期には、シナジー効果を求めてメディアとITの異業種提携や合併が行われたが、自動車メーカーと同様、結果は必ずしもはかばかしいものではなかった。全く異なる成功経験を持つ2つの企業文化を、1つの新しい文化に進化させることができなかったということだろう。

 名門や“エクセレント・カンパニー”と呼ばれた企業も、その位置を長期に保つのは容易ではなく、成長産業に携わる企業や、競争力ある新興企業にポジションを明け渡す結果になった。


注3: 不況期には金利を下げ、公共投資などの財政施策を行うケインズ経済学ではなく、金融政策に重点を置く米国の経済学者、フリードマンの考え方を適用したといわれている。


米国の反撃(2)〜グローバライゼーションとその武器としてのIT〜

 さらにその後、軍拡政策でソ連を解体に追い込み、唯一の大国となった米国は、再発展を目指して、国策とも思われる形で、金融を中心にグローバライゼーションを推進した。金融とITを米国建て直しの基盤産業とし、また、グローバライゼーションのための武器として、全世界に向けた強力なプロパガンダとともにIT化を推し進めた。

 まず、軍事・研究目的に使われていたインターネットが一般に開放された。これにより、グローバライゼーションに必要な、情報やお金を世界のどこにでも簡単に移動させ、瞬時に決済できる仕組みが構築可能となった。

 これを背景に、厳しい競争下でコスト削減と顧客満足を追求するBtoC ビジネスでは、通信販売のインターネット化が進んだ。広い国土を持つ米国では、通信販売が古くから社会に浸透していたため、取引方法に対する消費者の抵抗も少なかった。通販企業は、製品名や個人情報の入力など、従来は売り手が行っていた作業を、ITの仕組みによって消費者自身のセルフサービスに変えることにより、コスト削減と業務効率化につなげた。

 豊富な製品情報や配送スピードなど、競争力の強化策はeコマースの利便性として消費者にも支持された。やがてeコマースの進展は、インターネット関連ビジネスを進展させる起爆剤となり、多数のITベンチャーが生まれる背景になった。

 しかし、いっとき花形産業として活況を呈したIT産業は、20世紀の終わりとともにそのバブルの終焉(えん)を迎え、戦略産業としての位置付けは著しく低下した。米国の大学・大学院のコンピュータサイエンス学科や電子工学科には、従来からインド人や中国人など外国人学生が多かったが、筋書きがあったかのごとく、米国内のIT関連業務はインドや中国にアウトソースされ、昨日まで花形職種であった米国内のIT現場は、昇進の途も閉ざされたブルーカラー職場に変わっていった。


 再起をかけた国策に、われわれは何を学ぶことができるのか、後編ではITバブルの後、住宅バブルからサブプライムローンを引き金とする金融システム破綻への流れを追ってみたい。

profile

公江 義隆(こうえ よしたか)

情報システムコンサルタント(日本情報システム・ユーザー協会:JUAS)、情報処理技術者(特種)

元武田薬品情報システム部長、1999年12月定年退職後、ITSSP事業(経済産業省)、沖縄型産業振興プロジェクト(内閣府沖縄総合事務局経済産業部)、コンサルティング活動などを通じて中小企業のIT課題にかかわる


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