国際政治は、理想主義の流れをくむ“リベラリズム”と、国益と権力のパワーゲームという“リアリズム”の使い分けで成り立っている。地球温暖化や環境問題の議論において、「総論」には立派な大義名分の下、“リベラルな装い”をさせる一方で、現実には国益を懸けた厳しいリアリズムと、日本の国内常識とはかけ離れた性悪説を貫いている。良識や善意などとは無縁の世界が展開されているのである。
先進各国は2020年へ向けた削減目標を、途上国は排出抑制行動の計画を、COP15の2ページの最終合意書に添付する表に記入して、2010年1月末に提出することになっていた。ほかの国が画期的な目標や計画を出してくる可能性は極めて低い中で、日本はなぜか、日本にとって極めて不利な1990年を基準年として「2020年までにCO2排出量を25%削減する」と再度表明してしまった(注4)。今後の経過がどうであれ、25%という目標を引っ込めれば大恥をかき、「できもしないことを言った」と、京都議定書に対してと同様に、皮肉や陰口を叩かれ国際信用をさらに落とすことになる。
2000年以降にEUに加わった東欧など12カ国や、ドイツに統合された東ドイツは技術・経済が遅れているため、今後のエネルギー効率の改善余地が十分に残されている。そこでEUは、先進15カ国に東欧などを加えた27カ国ベースとし、その条件下で有利になる「1990年基準」としたうえで、達成容易な20%削減を表明した。また、もし他国が参加するなら「さらに30%まで努力する」という一見前向きに見える狡猾な表現にした。
日本が「技術もお金も出すから、やろうじゃないですか、皆さん!」と観念的に理想論を唱えても、誰も付いてはこない。そもそも「何が公平か、公正か」は、それぞれの国の置かれた状況によって大いに異なる。大まかにいっても、以下のように世界各国の利害は大きく対立している。
世界でイニシアティブを取るということは、このような世界の国々を相手に各国間の利害調整を図り、納得させる案をまとめ上げるということだ。しかし、現実はそれどころではない。日本は世界に突出した25%を追認すれば、世界の中で日本国民と日本企業だけが、著しく厳しい生活と経営を強いられることになる(注7)。しかも、全世界から見れば、わずかな排出量の日本だけが頑張ったところで、世界の事態が改善されるわけでもない。
日本だけが25%のCO2削減コストを負担することになれば、日本で製造する製品の価格競争力は低下し、需要はますます安価な新興国の製品に向かい、またCO2排出基準のゆるい新興国への工場移転に拍車が掛かる。ある大手の家電企業は、すでに省電力電灯の主役になるLED電球の生産拠点を、全面的にインドネシアに移すことを決めた。企業の損失はある程度は抑制できるが、雇用の失われた国内で国民生活はいっそう苦しくなる。製造業がなくなった分だけ国内のCO2排出量は減るが、代わりに失業者がちまたにあふれる。
未達分を満たすために規制のゆるい外国から排出権を買えば、日本からそれだけお金が流出する一方で、世界全体のCO2排出量が減るわけではない。皮肉なことに、これらの結果、全世界のCO2排出量は逆に増加することになる。生産を縮小してCO2排出量を減らして、あるいは事業撤退して、その分の排出権を売って収入を得ようという企業も出てくるだろう。これらはネガティブ思考による過度の悲観論ではない。ものの道理としてグローバルな経済社会であり得べくして起こり得る事態である。
「厳しい基準が技術を育て競争力を付ける」という話がある。確かにこのような例は過去にはあった。しかし、現在の日本政府と企業の物心ともに疲弊した状況から10年先を見通したとき、あまりにも成功のための条件がそろっていない。
かつての日本企業は、その成長期の勢いの中で革新的技術の開発と多額の設備投資を行い、さらにその上に細かい血のにじむような日常の努力を幾重にも積み重ねて、現在の高い技術水準に到達してきた。それが良循環となって競争力と成長につながっていた。しかし現在、この方法での「努力対効果」の限界に近付いているように思える。
革新的な新技術の開発はますます難しくなってきている。いまの状況では、多くの企業は自分を守るために、先の見えない困難な新規技術の開発より、先が読める海外移転に生き残りを懸けるだろう。
革新的な新技術の開発は、厳しい目標があれば頑張り、頑張れば成果が得られるというほど簡単なことではない。厳しい基準が技術を育てるなら、各国は競って厳しい基準作りに走るはずだが、現実はそんな甘いものではないことを知っているから、日本政府以外にそんなお伽噺に頼る国は皆無なのだ。
2010年2月に環境省が発表した工程表では、「25%削減のうち15%を国内で達成し、10%はお金を払って排出権を海外から買う」という。15%削減のためには、家庭部門だけでも、家屋の高断熱化、高効率の給湯器の購入、太陽光発電設備の設置、エアコンや照明など省エネ家電への買い替えなど、1世帯当たり300万円の投資が求められるとあるが、実際にはその程度では済まなくなるだろう。
クールビズやエコバッグの例のように、“環境保護”というトレンドを作り出そうとしたり、 「使わないときは電源を切りましょう」といった呼び掛けの類の取り組みで解決するレベルの問題ではない。国民によほどの“納得と覚悟”が必要になる問題だ。
かつて、自動車メーカーの本田技研工業は、米国のマスキー法の厳しい排気ガス基準を世界で初めてクリアするCVCCエンジンを開発した。同社にとって1960〜70年代は、高い志の経営者、燃える若い技術者たちが、4輪事業を本格的に立ち上げて米国進出を図ろうという時期であった。連日の残業や徹夜もいとわず、皆が夢と希望を抱いて頑張れた高度成長期の真っただ中であった。技術者が大事にされた時代でもあった。
しかし、いまの日本は、経済的豊かさを得た代償に、高い志や気力、体力が社会から失われてしまった。“理系離れ”も進んで久しい。不況の荒波が渦巻く中で、“攻め”ではなく、自社の“守り”のために技術者や研究者を動機付けることは、疲弊した現在の企業にとって極めて困難な課題になるだろう。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.