佐々木俊尚が判決を読み解く

「Winny自体は価値中立で有意義」の司法判断、その影響は!?

2006/12/15

winny01.jpg Winny裁判が争われた京都地方裁判所

 既報のとおり、Winny開発者の金子勇氏が著作権法違反(公衆送信権の侵害)のほう助罪を問われた、いわゆる「Winny裁判」の一審裁判の判決公判が12月13日に京都地裁で行われ、氷室真裁判長は金子被告に対して罰金150万円(求刑懲役1年)の有罪判決を言い渡した。

Winnyの技術は応用可能で有意義、価値中立的と判決で明言

 おそらく多くの技術者が気にしているのは、今回のWinny有罪判決が今後のソフトウェア開発に、どのような影響を与えるのかということだろう。その影響の全体を推し量るのは難しいが、しかし今回の判決から見えてきたことはいくつかある。

 まず第1に注目しておかなければならないのは、この有罪判決によってWinnyというソフトウェアそのものが否定されたことではないということだ。氷室真裁判長は、判決理由の中でこう述べている。「Winnyは、それ自体はセンターサーバを必要としない技術の一つとしてさまざまな分野に応用可能で有意義なものだ。技術自体は価値中立的であり、価値中立的な技術を提供することが犯罪行為となりかねないような、無限定な幇助犯の成立範囲の拡大も妥当でない」。

 つまり裁判所は、Winnyの技術には価値があり、ソフトそのものは「中立」であってそれがイコール犯罪になるようなことはない、と明確に言い切っているのである。この裁判では、検察側は一貫してWinnyそのものが犯罪的だと主張してきた。例えば初公判の冒頭陳述で検察官はこう述べている。

 「Winnyには、著作物ファイルの違法な送受信を促し、もっぱら著作権違反行為を助長させるよう、匿名のまま効率的にファイルの送受信を行うための各機能が備えられていた」

 そしてその主な機能として、(1)キャッシュ機能・暗号化機能、(2)アップロードの速度の変化でダウンロード側転送リンク数が増加する機能、(3)自動ダウンロード機能、(4)クラスタ化機能、(5)被参照量の閲覧機能――などが挙げられた。「これにより、Winnyが、ファイルを効率的に送受信できることはもちろんのこと、匿名性が高く、映画、音楽、ゲーム、アプリケーションソフト等の著作物ファイルを公衆送信しても警察に摘発されることはないものとしてインターネット上で定着し、その利用者が拡大し、著作権侵害が蔓延する状態になっていた」(検察側冒頭陳述)。

ソフトそのものに犯罪助長性はない

 しかし裁判所は、ソフトそのものに犯罪助長性があるという検察官の考え方を却下した。そして、判決理由の中で次のように明確にコメントしているのである。「結局、外部への提供行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは、その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識、提供する際の主観的態様によると解するべきである」。要するに、ソフト開発者が、どのような気持ちでそのソフトを提供したのか、その際にそのソフトがどのように使われると認識していたのか、開発者の「主観」によるということなのだ。

winny02.jpg 判決後、会見するWinny開発者の金子勇氏

 Winnyに関していえば、このソフトの開発は2ちゃんねるのダウンロード板からスタートしており、しかもWinMXなどのP2Pソフトが現実に著作権侵害ファイルの流通に利用されてきたという実態から考えれば、金子勇被告がWinnyを公開した段階で「このソフトが著作権侵害に利用される」ということは100%間違いなく予見可能だった。いやそれどころか金子被告は、ダウンロード板やWinny配布サイト、知人らとのメールのやりとりの中で繰り返し「既存の著作権のモデルは崩れつつあって、それを後押ししてもいいかと思う」というようなことを発言していたのであって、著作権侵害に使われることを想定してWinnyを配布していたのは100%紛うことのない事実だった。裁判所もその事実を認定し、その結果、罰金150万円の有罪判決が下されたというわけなのである。

 純粋な技術開発のためにソフトを開発し、その結果、逮捕・起訴されてしまうような社会は間違っていると私は思う。しかし今回の京都地裁判決は、そのようなことを認めたのではない。この事実を認識しないまま、いたずらに「不当判決だ」と地裁を批判するのは無意味だし、生産的ではないのではないか。今回のWinny事件は、はっきりいってかなり特殊なケースなのである。

Winnyが技術者に問いかける、もう1つの問題

 とはいえ、その認識に立って再びWinny判決を考えると、もう1つの問題も立ちのぼってくる。技術者はみずから生み出した技術に対して、どの程度発言し、その社会的影響を考えていかなければならないのか――という、技術者としての社会における立ち位置の問題である。

 Winnyを作った金子被告は、では何もしゃべらずに黙ってWinnyを作り、黙々と開発・配布しておけば良かったのか? そこで社会に対して何らかのコミットメントを行いたいという欲求は押しとどめなければならなかったのか?

 「Winnyの開発は技術検証のため」と主張してきた弁護団は(ちなみにこの主張は裁判所から一蹴されている)、公判の途中の弁論で、17世紀に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイを引き合いに出して、こう述べている。「ガリレオと本件と同一視するというわけではないが、一定の共通点が見いだせることも事実だ。つまり17世紀にガリレオの地動説に対する偏見があったのと同じように、Winnyの開発目的に対する偏見が存在しているのである」と訴えた。しかし歴史を振り返ってみれば、ガリレオは宗教裁判にかけられ、ローマ法王から「人を惑わし、神を冒涜している」と地動説放棄を誓わせられている。有罪判決を下されているのだ。技術者であろうと科学者であろうと、みずからが生み出したものに対して、つねにリアル社会から責任を追及されてしまう。残念ながら、現実とはそういうものなのだ。

 公判では、村井純慶応大教授も弁護側の証人として出廷した。村井教授は何度も、エンド・ツー・エンドの世界において、アプリケーションに責任を負わせるべきではないという理想を説いた。「効率の良い情報共有のメカニズムが、著作権法違反行為を助長させることに結び付くということは理解できません」「情報通信の基盤を開発することと、それがどう利用されたかは結び付けて考えられるべきではありません。開発すること、運用すること、それがどのように利用されるかということは、分けて考えるべきです」

 しかし検察官が、Winnyが実態としては著作権侵害に利用されていることを踏まえて、「あなたはWinnyがどのような目的で実際に利用されているのかを知っているのですか?」と聞くと、村井教授はこれに対してかなり苦しい答弁をせざるを得なかった。彼は、このように答えたのである。

 「私はWinnyの利用者から、その利用目的について聞いたことはないのでわかりません」

 このあたりの答弁の苦しさに、エンド・ツー・エンドの理想とリアル社会の衝突が浮き彫りになっているように私には思える。このあたりの問題について私は新著「ネットvsリアルの衝突 誰がウェブ2.0を制するか」(文春新書)で書いたが、インターネットが社会に深く広く浸透しているこの時代――いまや技術者であっても、リアルとの関わり合いを真摯に見据えなければならない時代に入ってきているのではないだろうか。

(ジャーナリスト 佐々木俊尚)

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