逆選択(ぎゃくせんたく)情報システム用語事典

adverse selection / 逆淘汰

» 2009年02月16日 00時00分 公開

 価値や品質に多様な等級がある対象を扱う取引において、判断材料となる情報の不足のために対象の個別合理的な価値評価ができず、相場や平均による価格判断が行われると、優良な財・経済主体に不利となって取引を見合わせるため、市場に劣悪な財・取引相手だけが残ってしまう現象のこと。情報の非対称性がある取引で発生するインセンティブ問題の1つ。

 例えば、品質保証や等級(価格)判定を行ってくれるディーラーがいない中古車市場を考える。市場にはクルマの状態をよく知っている売り手(所有者)と、その状態がよく分からない買い手しかいない。良い状態のクルマの売り手はその情報を発信するかもしれないが、品質の悪いクルマ(米国では「レモン」と呼ぶ)の売り手は「状態が悪い」という情報を提供するインセンティブを持たないため、情報の非対称性が生まれてくる。

 良いクルマと悪いクルマの区別がつかないとき、買い手の合理的判断は市場全体の平均価格(相場)を期待値とすることである。期待値が50万円だとすると、その価格で売ってもいいと考えるのは50万円以下のクルマの所有者だけとなる。すると50万円以上の価値を持つクルマは市場から姿を消し、買い手の期待値(市場の平均価格)が下落する。結果として市場には劣悪なクルマばかりとなり、最悪の場合には市場が消滅する。

 このように情報非対称の状態にある市場において、情報劣位にある取引主体は市場で提示される財の価格が高いか安いかを個別に判断できないために、優良な財が割高と評価されて淘汰され、劣悪な財が割安と評価されて選択されてしまう現象を逆選択と呼ぶ。

 経済学でいう市場とは、価格メカニズムを通じた競争によって良質な財や経済主体が選択され、悪質なものが淘汰されるシステムである。逆選択は、市場に参加する主体がそれぞれ合理的に行動した結果、全体としては非合理な選択がもたらされる現象で、典型的な「市場の失敗」の一例である。

 逆選択はもともと、保険分野の用語で「保険事故の発生確率が高い人(あるいは組織)ほど、保険に多く加入したがる」現象を指す。例えば、健康な人と病気がちな人が保険料が同一の医療保険に加入できる場合、病気がちの人の方が保険による受益機会が大きく、保険に加入するインセンティブが強い。この高リスクの人ほど、保険に加入しようとする傾向を「逆選択」という。

 保険は本来、個別の不確定事象を“大数の法則”で平均的・確率的に扱うことで成立するため、同一の保険料率は同一の危険確率の人々に適用されなければならない。そこで保険者(保険会社)は危険事象の発生確率から保険料率を定め、さらに被保険者(加入希望者)をリスク分類・選別しなければならない。

 このために保険会社は保険加入希望者の情報を取得しなければならないが、保険加入希望者は少しでもよい条件で保険契約を結びたいと考えるため、進んで自身に不利な情報を提供するインセンティブを持たない。ここに情報の非対称性が発生する。

 適切なリスク分類ができない保険会社は、異なるリスクの被保険者に一律の保険料率を適用せざるを得ないが、これは低リスクの保険加入者にとって不利、高リスクの加入者にとって有利という状況を生み出す。保険会社から見て優良顧客である低リスク集団はこの保険商品に魅力を感じないため、保険を買わなくなるだろう。

 低リスク集団の比率が減ると、保険会社はその分保険料率を引き上げざるを得なくなるが、そうなると残った加入者の中で相対的に低リスクのグループも保険を掛けなくなる。この悪循環の結果、ついには保険市場が成立しなくなることさえ考えられる。このため逆選択の防止は、任意保険における重要な課題であった。

 このような情報の非対称性を経済学の問題として最初に採り上げたのは、米国の経済学者 ケネス・J・アロー(Kenneth Joseph Arrow)だった。保険統計の経験があったアローは1963年に、アメリカン・エコノミック・レビュー誌に「Uncertainty and the Welfare Economics of Medical Care」を発表し、逆選択の概念に触れた。

 逆選択が保険市場だけではなく、一般の競争市場にも成立することを論じたのが米国の経済学者 ジョージ・A・アカロフ(George Arthur Akerlof)である。アカロフは1970年にクォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミックス誌に掲載された「The Market for 'Lemon'」という論文で中古車市場を採り上げ、品質の良いクルマが市場から追い出されるモデルを示した(同論文の中古車市場は説明例であり、中古車取引の不可能性を論証したものではない)。

 逆選択の実例としては、1980年代に米国で発生した「アタリ・ショック」を挙げることができるだろう。これはアタリ社のハードウェアによって立ち上がったビデオゲーム(テレビゲーム)市場にサードパーティのゲームメーカーが多数参入して粗悪な製品が氾濫(はんらん)した結果、「楽しいゲーム製品」を見抜くことができない消費者がゲーム離れを起こし、市場が崩壊した事例である。

 逆選択を防止するには、情報の非対称性を緩和し、機構や制度を手段を導入する必要がある。基本対策としては「情報開示の義務化」「取引主体の身元・責任の明確化」「第三者による審査・格付け」などが考えられ、具体的な制度・対策としては株式市場におけるディスクロージャー、品質管理におけるISO 9000の取得、返品・返金の宣言などが挙げられる。経済学では「シグナリング」と「スクリーニング」として理論化されている。

 なお進化論の文脈では、「文明が発達して弱者保護の制度が確立されると、自然選択のメカニズムが働きにくくなるため、不適者が淘汰されずに集団全体の劣化が進む」という考え方をadverse selectionと呼ぶ。19世紀にフランシス・ゴルトン(Francis Galton)が述べたもので、ここから悪名高い優生思想・優生学が生まれた。

参考文献

▼『非対称情報の経済学――スティグリッツと新しい経済学』 藪下史郎=著/光文社新書/2002年7月

▼『戦略的思考の技術――ゲーム理論を実践する』 梶井厚志=著/中央公論新社・中公新書/2002年9月

▼『ある理論経済学者のお話の本』 ジョージ・A・アカロフ=著/幸村千佳良、井上桃子=訳/ハーベスト社/1995年3月(『An Economic Theorist's Book of Tales』の邦訳、「The Market for 'Lemon': Quality Uncertainty and the Market Mechanism」の邦訳を収録)

▼『組織の経済学』 ポール・ミルグロム、ジョン・ロバーツ=著/奥野(藤原)正寛、伊藤秀史、今井晴雄、西村理、八木甫=訳/NTT出版/1997年11月/(『Economics, Organization & Management』の邦訳)

▼『リスク・マネジメント論』 森宮康=著/千倉書房/1985年5月

▼『保険とリスクマネジメントの理論』 亀井利明=編/玉田巧、姉崎義史、大城裕二、羽原敬二、武田久義、樫原朗=著/法律文化社/1992年4月


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