ベンチャーは奇数のチームで始めるが吉――ミドリムシ培養「ユーグレナ」の場合転機をチャンスに変えた瞬間(25)〜ユーグレナ 出雲 充(1/2 ページ)

ビジネスの見込みはないが会社を辞めた。売るものがないのに起業した。それが逆にみんなを必死にさせた。

» 2015年01月19日 17時30分 公開
転機をチャンスに変えた瞬間 ビジネス編
転機をチャンスに変えた瞬間

連載目次

 ミドリムシ(学名:ユーグレナ)は、人間に必要な栄養素のほぼ全てを含む生き物だ。機能性食品として、また二酸化炭素の排出削減やバイオ燃料への活用も期待されており、研究が進められている。このミドリムシの屋外大量培養に世界で初めて成功した「ユーグレナ」は今、最も注目されている会社の一つだ。しかし会社が軌道に乗るまでには、さまざまな危機があったそうだ。

ユーグレナ 代表取締役社長 出雲 充(いずも みつる)氏

出雲 充

1980年生まれ。東京大学文科三類在学中に「アジア太平洋学生起業家会議」の日本代表を務め、3年進学時に農学部に転部。2002年同大学卒業後、東京三菱銀行に入行。退職後米バブソン大学「プライス・バブソンプログラム」修了、経済産業省・米商務省「平沼エヴァンズイニシアティブ訪米ミッション」委員を務め、2005年ユーグレナを創業。

2010年、内閣の知的財産戦略本部「知的財産による競争力強化・国際標準化専門調査会」委員。2012年、中小企業基盤整備機構Japan Venture Awards 2012「経済産業大臣賞」受賞、世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader 2012選出。信念は「ミドリムシが地球を救う」。


銀行員か、ミドリムシか

出雲 充氏

松尾 大学を卒業したころは、どのようなことを考えていましたか。

出雲 大学3年のときにミドリムシと出会い、「世界から栄養失調をなくすにはミドリムシしかない」と思いました。光合成で植物性の栄養素を作り出すと同時に、自ら動く性質を持ち動物性の栄養素を作れるからです。しかし当時はミドリムシを大量に培養する技術がまだ確立されていませんでした。

 どうやって事業にするかというアイデアがあるわけではなく、そもそもお金もありませんでしたので、「まずは銀行に入って武者修行しよう。ミドリムシ研究にはお金が掛かるから、資金調達などの勉強をしよう」と考え、銀行に就職しました。ということで、当時はちゃんとした職業観のようなものは持っていませんでした。

松尾 もともと世界の栄養失調をなくすことに関心をお持ちだったのですね。

出雲 高校生のころは「国連に就職し、貧困や飢餓をなくす仕事をしたい」と思っていました。そこで、まず貧しい国へ行き何かしら経験を積んだ方がいいと思い、18歳のときにインターンでバングラデシュのグラミン銀行へ行き、山ほど炭水化物があるのに飢餓や栄養失調にあえぐ人たちがいる現実を目の当たりにしました。

 飢餓というのはカロリー不足だけではなく、栄養素の不足でも起こることを知りました。そうした流れで「ミドリムシを何とかして世に送り出したい」と考えるようになりました。

松尾 銀行は1年で退社されましたが、理由は何だったのですか?

出雲 銀行員時代は、会社の仕事を平日にしながら、週末に全国のミドリムシ研究者を訪問して「なぜ培養がうまくいかないのか」を尋ねる生活を送っていました。その中である日、こんな言葉をもらいました。「あなたはアマチュアのミドリムシ研究者の中では超一流といえるレベルです。ただ、プロではない。普段は銀行員ですからね」。

 日本では1980年からミドリムシ研究が行われています。つまり「ミドリムシ好きのアマチュアが20年以上研究に取り組んできたプロの研究者に、『苦労して蓄積した研究テーマを教えろ』なんて虫のいい話だ」ということです。

 確かに、逆の立場だったら私もそう考えるだろうと思いました。「結局、あなたは銀行員をやりたいのか、ミドリムシ研究をやりたいのか」という話です。浮気をしているような人と本気で一緒にやることはできませんよね、と。

 気合いを入れて銀行員をやっている人から見ても、大事な局面で「ミドリムシの方が大切です」なんて言う人は信用できません。ですので、「取りあえずプロになる」と心に決めて辞めてしまったのです。ミドリムシ研究のメドも見込みも、その時点ではなかったのですが。

松尾 事業の見込みがあったわけではなかったのですね。

出雲 そうです。そして研究者の先生たちに「ミドリムシを真剣にやりたいので銀行を辞めました」と報告したら、どの先生もビックリされました。

 「若い子が銀行を辞めて夢を追ってミドリムシ業界に飛び込んできたのに、そのままにしてしまったら業界として格好がつかない」と考えていただいたのか、日本中のミドリムシの先生たちが「こうなったら協力してやるしかないな」という流れになりました。

 研究も本当は競争なので「協力する」とはなかなかならないのですが、学会で一番偉かった先生が「みんなで彼を世の中にデビューさせよう」と言ってくれたのです。それで、いろいろなところに教えを乞いに伺えるようになり、研究が進み、会社を作ることになったのです。

松尾 一般的な起業のイメージとは順番が異なりますね。

出雲 ほとんどの方は、私が銀行にいたときにミドリムシの培養技術を発明し、退職して会社を立ち上げたと思われているのですが、実は「ものになる見込みがない段階で銀行を辞め、その後次第に研究が進んだ」という順番なのです。しかも会社を作った時は、まだ屋外大量培養技術を確立していませんでした。つまり、売るものがないのに会社を作ってしまったのです。

 面白いもので、そうすると自分を含めてみんなが必死になるんですね。社名のユーグレナはミドリムシのことですが、「ミドリムシの会社」なのにミドリムシを培養できなかったら恥ずかしいですから。それでみんなで必死になって難しい研究をクリアし、ミドリムシを販売できるようになりました。

 ただし、一つも売れませんでした。

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