今の日本には、「人工知能」に関する研究を社会実装につなげるエンジニアが必要特集:「人工知能」入門(3)

「画像解析」は、近年の「人工知能」と呼ばれる技術によって品質とスピードが著しく向上している分野の1つだ。画像解析エンジンを独自に開発し、生体認証をはじめとしたさまざまな分野に応用しようとしている日本のベンチャー企業にLiquidがある。代表の久田康弘氏に、Liquid設立の経緯や、「人工知能」に対する考え方について聞いた。

» 2016年06月17日 05時00分 公開
[柴田克己@IT]

 「人工知能(AI)」という言葉が、近年再び多くのメディアを騒がせている。50年以上前から、「人工知能」は数度のブームと収束を繰り返しながら研究が続けられてきたが、今回の「AIブーム」は、過去のものとは少し状況が違うようにも見える。

 特集第1回の「Deep Learningが人工知能の裾野を拡大。ビジネス、社会、エンジニアはどう変わるのか?」で述べられている通り、「機械学習」「Deep Learning」を中心に、さまざまな要因が複合的に働き、技術的なブレークスルーを可能にした。事実、「人工知能」は近年、これまで難しいとされていた、自然言語によるクイズ、チェス、将棋、囲碁といった領域で次々と人間に勝利し、その能力の高さを見せつけた。それが、「人工知能」に対する世の中からの期待を、再び大きくあおることにもつながっている。

 膨大なデータから、従来は不可能だったスピードと「正しさ」で何らかの答えを導き出せるシステムは、人間とのゲーム対戦だけではなく、既に多くのビジネス領域において実際に活用が進んでいる。その意味で、「人工知能」は未来の技術ではなく、既に十分に実用的な技術として、活用を検討すべき段階に到達しているのだ。

 「画像解析」は、近年の機械学習やDeep Learningによって品質とスピードが著しく向上している分野の1つだ。画像をアップロードすると、その内容を表す説明文を自動的に付けてくれたり、似た画像を大量に検索してくれたりするようなWebサービスを利用して、その精度に驚いた経験がある人も多いのではないだろうか。こうしたサービスのバックエンドで動いているのは、機械学習やDeep Learningの技術である。

 この画像解析を実現するエンジンを独自に開発し、生体認証をはじめとしたさまざまな分野に応用しようとしている日本のベンチャー企業がある。久田康弘氏が代表を務める「Liquid」だ。

 画像解析のような基礎技術は、これまで一般的に、大手企業が長い時間と資金を投じて研究するものとされていた。2013年12月に設立されたばかりの「Liquid」は、既に同社の画像解析エンジンをベースとした指紋認証システム「Liquid Pay」について、イオン銀行のような金融機関、ハウステンボスのようなテーマパークなどと共同で実証実験を実施し、着々と本格的なビジネス展開への基礎固めを行っている。

 今回、Liquidの代表取締役である久田康弘氏に、設立の経緯や、同社の「人工知能」に対するアプローチについて聞いた。

「画像」を機械と人間の新たなコミュニケーション手段に

 久田氏らが、画像解析技術の研究に取り掛かったのは、2011年頃のことだ。スマートフォンやタブレットのような「スマートデバイス」の普及が加速する中、今後機械と人間とのインタラクションの方法が大きく変わっていくだろうとの認識があったという。

 キーボードがないスマートデバイスでは、それに代わる効率的な情報入力の方法が求められる。キーボードがない代わりに、音声を入力する「マイク」や、画像を入力する「カメラ」はスマートデバイスに標準装備されている。「自然言語と音声については、グーグルなどが実用化に本腰を入れ始めていたので、勝てる見込みが少ない。ちょうど、機械学習が注目を集めていた時期でもあり、カメラを利用したイメージングが有望なのではないかと考えて研究をスタートしました」。

 Liquidの画像解析エンジンを用いたLiquid Payは、「指紋」情報の画像認識によって、本人認証を行うシステムである。消費者は、Liquid Payの加盟店舗で自らの指紋画像と、ひも付けるクレジットカード情報などを登録すれば、以降は全ての加盟店舗において指紋認証を行うだけで決済が可能になる。このユーザーにとっての「手軽さ」が、過去に金融機関のATMなどで採用された生体認証技術と比較した場合の優位性になるという。

 「これまで指紋認証は、基本的に2要素認証の1つとして使われることが多く、照合方法も『IDにひも付いて登録された指紋と、この人の指紋が一致するか』という、1対1での照合が中心でした。2要素認証は、確かに強度が上がりますが、ユーザーにとっては『なぜ、指紋認証するのにIDも必要なのか』という点で不便だったわけです。Liquid Payでは、登録された多数の指紋の中から、スキャンされた指紋と同じものを見つけ出す1対多の照合を十分な精度とスピードで実現することで、1度登録すれば指紋だけで決済ができる環境を提供しています」

 多数の指紋画像の中から、スキャンされた指紋と同じものを高速かつ正確に特定するための「画像検索エンジン」が、従来の指紋認証システムとの技術面での差別化のポイントである。もちろん、全ての加盟店舗で指紋による決済を実現するためには、クラウド上、ネットワーク経路上で指紋画像をセキュアに取り扱うための仕組みも必要になる。これらを実現するための一連のシステムがLiquid Payの肝というわけだ。

 生体認証技術そのものは、過去にも多くの研究が行われており、ある意味で「枯れた」領域だ。また、生体認証ATMなどが、あまり広く使われていないこともあり、Liquidが、その分野に取り組もうとしたときにも、否定的な意見はあったという。

 「ただ、生体認証が広く使われない理由が『ユーザーにとって、他の手段より使いづらい』からであれば、そこにある利便性の課題を、われわれが解決することはできると考えていました」

 実際、Liquid Payによる指紋決済は、実証実験も順調に進み、予想していたよりも、急速に立ち上がっている印象があるという。

研究成果をどう「社会実装」するかが腕の見せどころ

 Liquidにおける研究開発のスタンスは「社会実装に向けた明確な目標を定め、それに合わせた開発を行う」こと。画像検索エンジンの「スピード」と「精度」についても、このスタンスを厳守する。純粋な研究目的ならば、0.1秒でも速い検索、0.01%でも高い精度を追求することが求められるかもしれないが、「もし、それがサービス実装上で意味のないものであれば、そこは追求しない」という。

 Liquidでは、決済分野のLiquid Pay以外にも、画像解析、検索技術の実用化に向けた研究開発を、さまざまな業界と共同で行っている。幾つか例を挙げると、保険業界での「事故発生状況」の可視化や、 自動車業界での「運転・事故状況」の可視化、スポーツ分野、アパレル業界への応用と、非常に幅広い。各業界での用途に合わせ、利便性と実用性の両立に必要十分なスピードと精度を実現したエンジンを作り、セキュリティ、周辺機能を個別に作り込んで、迅速に社会実装まで持ち込むのが同社のやり方だ。

Liquid 代表取締役 久田康弘氏

 「Liquidには、画像解析技術のエキスパートが多く在籍していますが、そうしたメンバーであっても、データプロセスから、サーバサイドまで、全てを手掛けられるようになってほしいと思っています。画像解析は、データの前処理の段階ですので、最終的には全体のプロセスを通して見て、実際のサービス、社会実装まで持っていける能力を持ってほしいというのが、エンジニアに対するLiquidのポリシーです」

 Liquidには、画像解析に関する最新の研究成果を自社エンジンに取り入れるため、専門のリサーチャーも在籍している。近年、IBMやマイクロソフトをはじめとする企業が、機械学習やDeep Learningに関する自社の技術をAPIとして公開しているケースもある。そうしたものの活用には「内部の状況が詳しく分からない技術を、Liquidのビジネスに使うのは難しい」と否定的だ。

 「APIは使う際の利便性を考慮するせいか、どうしてもブラックボックスの部分が多くなってしまいます。それを使ったビジネスでは、お客さまに対して説明責任を果たせない部分が出てきてしまうので、難しいと思っています。グーグルのTensorFlowのようなオープンソースソフトウェアのライブラリであれば、自分たちの研究の一環やプロトタイピングのために使ってみることはあるでしょう。基本的には自分たちで書いたロジックを使ってシステムを作っていく形が基本です」

 Liquidでは、外部のAPIを利用するより、むしろ、自分たちのロジックをAPIとして公開することを視野に入れている。自社で外部のAPIを利用しないのと同じ理由で、APIの公開自体がビジネスになるかどうかについては懐疑的だが、そのAPIを公開することで、より幅広く、多くの標本を集め、自社の開発に活用できる可能性があると考えているという。

 キャッチーなサービスを無料で公開し、それを利用した大量のユーザーから、標本となるデータを取得する手法は、実は多くの企業によって行われている。グーグルが提供する一連のWebサービスや、マイクロソフトが機械学習の応用例として公開し、話題となった「顔の画像から年齢を推定する」サイトなども、その一部と考えられる。Liquidがビジネス上意識しているのは、むしろ、こうした企業の動向だ。

 「マイクロソフトやグーグルの存在は意識しています。この2社は、研究開発に当たって社会実装を強く意識しているため、われわれと同じ方向を向いていると感じるからです。『人工知能』による自動運転などの分野で顕著ですが、日本の企業が問題が起こることを恐れてコンサバティブにしか進められない研究や実証実験を、より実装を意識した形で、どんどん進めています。政府からの支援や地理的な環境、ブランドなども含めて、それが許される状況にあることは、強いですね」

「人工知能」が「人間のように思考する」未来は訪れるか?

 機械学習を、「人工知能」開発のより広い分野に生かせるかどうかについて、久田氏は「未知数」だという。

 「機械学習の研究分野には、大きく『学習記憶』に関する部分と『学習に基づいた思考』に関する部分の2つがあると思っています。後者の『思考』について『人工知能が人間と同じように思考する』レベルに到達できるかどうかについては、現時点では懐疑的です。そもそも、人間自身が思考する仕組みについて明らかになっておらず、それがアルゴリズム化できるものかどうかさえも分からないからです。

 一方で人間の『思考パターン』を学習で『記憶』する分野については、画像解析だけではなく、将棋や囲碁、自動運転などの分野でも多くの成果が出ています。現在、一般的に言われている『人工知能の進化』の文脈では『機械が人間と同じように思考する』ようになることが主に注目されていますが、正直なところ、社会実装に主眼を置いた研究では、そこに到達することは難しいし、それでいいと思っています。その意味で、われわれは自分たちの開発している技術をあえて『人工知能』とは呼んでいません」

「人間の方が『学習』に関するエネルギー効率が高い」

 機械学習やDeep Learningの手法が、より洗練されることで、これまで人間にしか行えなかった「知的単純作業」の多くは、「人工知能」に任せてしまえるようになる。そして、メカニズムそのものが解明されていない高度な「思考」に、人間はより多くのリソースを割けるようになる。それが「人工知能の進化」によって訪れる近未来の、より現実的な姿ではないかというわけだ。

 久田氏はもう1つ、「人工知能」が「人間の知的単純作業」を代替していくために必須の要素として「エネルギー効率の改善」を挙げた。

 「人間のエネルギー効率はものすごく高くて、軽くご飯を食べれば半日でも自律的に動き回って、いろいろなことを学習できますよね。一方で現時点では、機械が学習するためのコンピューティングリソースを動かすために、膨大な電気エネルギーが必要で、コストも掛かります。現在エネルギーの高効率化に関する研究も多くの分野で進んでいますが、将来的に、『人工知能』が人間よりも効率良く学習したり、判断したりできるような時代がやってくると、世の中は大きく変わるかもしれません」

大学での研究をそのままの形で社会に生かせる場を

 近年、「人工知能」分野は再び脚光を浴びているが、人材確保には苦労していると久田氏は言う。「そもそも、画像解析自体が高度な研究分野ですし、パイが小さい中で各社が人材を奪い合う状況はしばらく変わらないでしょう」。特に同社の場合は、研究職としてのリサーチ能力に加えて、それを実装するためのエンジニアリング力も同時に問われるため、ハードルはどうしても高くなってしまう。

 「SIerの方々とお話しする機会があるのですが、もともと大学でコンピュータの基礎研究を行っていたが、今は普通のサーバサイドをやっているという方が多いです。不満に思っていても、研究だけでは食べていけない。これまでは、大学の研究室でしっかり基礎研究をしていても、それを生かせる就職口が少ないという状況もあったと思います。Liquidのような企業が、研究内容をそのまま社会実装につなげられる場として機能するようになれば、今の日本における人材の流れも変えていけるのではないかと思います。また、それを目指しています」

特集:「人工知能」入門 〜今考えるべき、ビジネス差別化/社会改善のアーキテクチャ〜

競争が激しい現在、ビジネス展開の「スピード」が差別化の一大要件となっている。「膨大なデータから、顕在・潜在ニーズをスピーディに読み解く」「プラント設備の稼働データから、故障を予測・検知して自動的に対策を打つ」「コールセンターの顧客対応を自動化する」など、あらゆるフィールドで「アクションのスピードと品質」が競争力の源泉になりつつある。こうした中で注目を集めている「人工知能」――人には実現できないスピードで膨大なデータを読み解き、「ビジネスの差別化/社会インフラの改善」を支援するものとして、今さまざまな分野で活用の検討が進んでいる。こうした動きは、ビジネス、社会をどのように変え、エンジニアには何を求めてくるのだろうか? 人工知能のインパクトを、さまざまな角度からレポートする。



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