第51回 企業の中で「Rubyコミッター」の看板を背負う覚悟と喜びマイナビ転職×@IT自分戦略研究所 「キャリアアップ 転職体験談」

「転職には興味があるが、自分のスキルの生かし方が分からない」「自分にはどんなキャリアチェンジの可能性があるのだろうか?」――読者の悩みに応えるべく、さまざまな業種・職種への転職を成功させたITエンジニアたちにインタビューを行った。あなたのキャリアプランニングに、ぜひ役立ててほしい。

» 2018年03月01日 10時00分 公開
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 村田賢太さん(@mrkn)は、デジタルコンサルティング事業などを行う「Speee」で、「Rubyコミッター」として従事するエンジニアだ。Rubyの発展のために貢献する活動を主とし、その活動をSpeeeに還元し、影響を与えるという立ち位置であり、Rubyでデータサイエンスが可能な世界を実現することに注力している。

 村田さんは北海道苫小牧市出身で、現在36歳。小学生のころからプログラミング漬けの日々だったという。現在に至るまで、非常勤講師、Rubyユーザーグループをはじめさまざまな場所で活躍してきた村田さんが今なぜSpeeeにいるのか、企業選択のチェックポイントはどこにあるのか、インタビューで掘り下げていこう。


【転職者プロフィール】
村田賢太さん(36歳)

Speee Rubyコミッター(2017年2月入社) 博士(情報科学)

【転職前】
Kondara MNU/Linuxの開発をはじめ、複数のオープンソースソフトウェア開発への参画を経て、2010年からCRubyのコミッターとして、主にbigdecimalライブラリのメンテナンスを担当。クックパッド(2011〜2016年)。リクルートホールディングス(2016〜2017年)

【転職後】
Rubyのコミッターとして、技術支援を行う

関連ブログ:株式会社 Speee に Ruby コミッターとして入社しました - Speee DEVELOPER BLOG

孤独な少年時代(でも寂しくはなかった)

 村田さんは北海道の苫小牧市出身だ。PCとの出会いは早く、小学4年生のころに親から与えられた「MSX(主に1980年代から1990年代にかけて製造された、8ビットもしくは16ビットのPC)」がきっかけだった。親がワープロ代わりに購入したMSXを、当初村田さんはゲーム機として利用していた。しかしいつの日か、ゲームよりも興味をそそられるものができたのだという。

 「最初は、雑誌に掲載されているプログラムを打って、ゲームを作って遊んでいました。ゲームをやりたいから誌面のプログラムを入力する。でも、そのうち仕組みそのものが気になり、プログラミングに興味を持ち始めました。そしていつの間にか、ゲームよりもプログラミングの方が楽しくなったのです」

 小学校にはPCを学ぶ施設はなかったが、中学校に上がるとITを学ぶための教室があった。2、3人に1台の割合で「PC-9801」が用意され、授業で学ぶ機会ができたという。だが、授業はキーボードから文字を入力する程度だったので、大して面白くはなかったとのこと。

 村田さんは数学、理科は「改めて振り返ると、多分得意な方だった」と述べるが、「国語は苦手でした。成績は悪くなかったけれども、なぜ正解なのかが曖昧な問題がいっぱいあったので」とも。このころから、エンジニア的な思考があったのかもしれない。

 プログラミングにはまった村田さんは、雑誌のプログラムの「写経」だけでなく、アセンブラによる機械語や、雑誌に付いていたForth系言語も学んでいったという。PCにここまではまっている中学生は周りにはほとんどいなかったが、「プログラミングを一緒に楽しむような友達はいませんでしたが、MSXの雑誌には解説がしっかり書かれていたので読むだけで新しい情報が手に入ったし、何よりプログラミングが本当に楽しかったのです」と当時を振り返る。

 そして村田さんは、中学卒業後に高等専門学校(高専)への進学を希望するようになる。もちろん、その背景には「プログラミング」があった。

高専を狙った理由、それは「Cコンパイラを手に入れるため」

 「親が、高専に受かったら新しいPCとCコンパイラを買ってくれると約束してくれまして。推薦は落ちたけれども、筆記試験で合格して苫小牧高専に行くことになりました」と村田さんは語る。

 晴れて情報工学科に入学。しかし、高専に行けば似たようなPC好きの仲間がたくさんいたのかというと、入学前と同じで少数派だったという。だが村田さんは、友人を作りに高専に進学したのではない。もっともっと学びたかった彼は、「これで好きなことができる」と喜んだ。ソフトウェア技術関連ではOSやプログラミング言語論、システムプログラミングや人工知能、機械学習なども選択科目として学べた。この経験が彼の方向を大きく決めた。

 その後進学した北海道大学で大学院まで進学し、複雑系科学を学び、2009年に卒業。その前後で、「Ruby札幌」メンバーとしてコミュニティー活動にも携わってきた。

 大学院卒業前後は専門学校などで非常勤講師として働き、教えることを通じてコミュニケーション能力を培ってきたが、さらに研究の道を進むことは選ばなかった。

 「研究業績が良いわけではなく、先が見えなかった。それに当時は英語が全くできず、日本語以外でのコミュニケーションが得意ではなかった。だから、学問の道よりも“プログラミングで食っていく”方を選びました」

 そんな村田さんに転機をもたらしたのは、コミュニティー活動で携わっていた勉強会だった。

上京、そして「プログラミングで食っていく」

 村田さんは大学院卒業後、北海道のベンチャー企業に就職してシステム開発に従事した時期があった。働きだして2年が経過したころのことだ。Ruby札幌の勉強会に、クックパッドのエンジニアが、技術部長、そして人事を連れて遊びに来たのだ。

 「当時、Rubyで仕事ができるのはクックパッドともう1社くらいしか頭に浮かびませんでした。もう1社は、受託がメインの企業。クックパッドならば、仕事の幅や自由度、そして給与の面でより楽しく働けるのではないかと考え、知り合いを通じてアタックをかけて転職しました。クックパッドは自社でサービスを作っている会社なので、自由に技術を試せる余地があると思いました」

 2011年からクックパッドに在席。2010年2月からRubyのコミッターとして活動していたこともあり、クックパッド内ではRubyのバージョンアッププロジェクトと、開発環境を整える作業、品質改善のための継続的インテグレーション(CI)の性能改善などに携わっていたという。トラブル時に、Rubyの問題なのか/クックパッドの環境固有の問題なのか切り分けるなど、Rubyの内部に深く携わっているからこその知見を提供していたという。

 クックパッドというと、エンジニアが働きやすい天国のような環境という印象を持つ読者も多いだろう。村田さんも「エンジニアにとって素晴らしい場所」だったという。しかし、4年間の在席期間の後、リクルートに転職する。

辞めた理由、入った理由

 村田さんがリクルートで配属されたのは、「メディアテクノロジーラボ」(MTL)と呼ばれる特別な部隊だった。MTLは、リクルートグループ内のベンチャーが、先端技術を知るMTL専属エンジニアと共にアイデアの事業化をすすめ、最終的には事業化し独立するという立ち位置の組織だ。そのリードエンジニアとして迎えられた。

 転職の理由の1つは「自分で決めてゼロから携われること」、もう1つは「より給与が高かったこと」だったという。

 「何となく『他の選択肢』を考えていたところに、たまたま話が来たのがたまたまリクルートで、そこにたまたま知り合いがいて、たまたま話を聞いたら、面白そうだったのです」

 クックパッドへの入社も、リクルートへの転職も、「給与」にはこだわった。村田さんは「お金は大事ですよ。高ければ高いほど良い」と述べる。

 「年収3億円なら満足か?」との問いにも、「他から『5億円払います』と言われたら、そっちの方が魅力的ですよね」と答える。

Rubyコミッターとして働くということ

 そして2017年、現在のSpeeeにたどり着く。

 「Rubyコミッター」がメイン業務。入社を決めたのも「Rubyコミッターの仕事ができるから。それがなかったらここに来ていません」と述べる。もちろん、給与も上がっているという。

 「Speeeから、『Rubyのコミッターとして働かないか』という誘いがありました。その時点ではSpeeeという会社が何をしているのか知らなかったのですが、そういう誘いをするのは、面白い会社だと思いました。クックパッド時代の同僚がいたことも後押しになりました。知っている人がいて、その人に話を聞いて詳しい状況が分かって、判断材料がそろった。決断するためには『知人が持つ情報』は重要です」

 「Rubyコミッターの看板は重い」と村田さんは言う。

 「趣味でやっていることなら、『時間がなくてできませんでした』といった言い訳ができますが、それはできない。今後何か変なものができてしまったら、Speeeの名前に傷が付いてしまう。それに、活躍していないと、Speee社内からも『アイツは一体、何をしているんだ』と思われるでしょう。Rubyコミッターとして採用されたからには『成果』が重要です。自分をこの会社に置く理由は、誰から見ても分かるようにしなければならないんです。精神的にはつらいんですけれど、でも楽しいんです」

 トガったエンジニア代表のような村田さんに、これからのエンジニアに必要な能力を訪ねると、意外な答えが返ってきた。

 「人と話せるようになった方がいいですよ。私の時代は、プログラミングが好きで、ある程度の技術力を持っていれば、ソフトウェアエンジニアになれました。しかしこれからのテクノロジーは、特に基盤に近いレイヤーで人間がいらなくなる方向に進化するはずです。そうなると、自動化の仕組みを作る人になるか、自動化で対応できない複雑な部分を作れる人になるか、事業の要求を汲み取りシステムに伝える人になるか、そのいずれかです。これまで以上に、人とのコミュニケーションができないと仕事がなくなってしまいます。ソフトウェアエンジニアは、コミュニケーション能力を付けることを真剣に考えた方がいいです」

人生で一番楽しかった時期は、もちろん――

 苫小牧市に生まれ、MSXでプログラミングの楽しみを知り、多くの企業で村田さんにしかできないことをやってきた。高専、大学、Ruby、コミュニティー、上京、そして数回の転職――選択基準は常に「楽しさ」であり、いつも「楽しい」を追究してきた。

 村田さんは「確かに『楽しい』が判断基準だったかもしれません。正確には『楽しくないことをできるだけしなくてもいい』道を選んできました」と述べる

 楽しいを大切にする村田さんだからこそ、「人生で一番楽しかった時期はいつか」との問いへの答えも明快だった。

 「人生は常に『今が一番楽しい』と思いたいし、実際その通りです。今後も楽しくなっていけばいいなあ、くらいの思いで過ごせればいいですね」

採用を担当した、開発部 顧問 井原正博さんに聞く、村田さんの評価ポイント

 村田さんが入社する前からSpeee社内では、エンジニアによるオープンソース活動への参加や勉強会が行われていたのですが、さらなるレベルの向上をどうすれば実現できるのか模索していました。

 Rubyコミッターであり、多くのオープンソースソフトウェアの開発に携わる村田さんが入社したことで、その取り組み方を身近に見ることができ、技術的にレベルの高い議論も数多く行われるようにもなりました。また、Rubyコミュニティーにもより深く関わることができるようになり、多くのコミッターの方々や、彼とつながりがある社外の優秀なエンジニアの方々と触れ合う機会も増えました。社内では、PyCallの開発を始め、Rubyのフルコミッターとしての活動が中心となっていますが、事業に関わるエンジニアに対しても技術的な相談に乗ったり、良い影響を与えてくれていると思います。

 今後も現状の開発を続けながら、さらに大きな事業との相乗効果を生んでくれることを期待しています。


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提供:株式会社マイナビ
アイティメディア営業企画/制作:@IT自分戦略研究所 編集部/掲載内容有効期限:2018年3月31日

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