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Amazonは知らなかったけど、WebでサービスをやりたかったGo AbekawaのGo Global!〜崔 国編(前)(2/2 ページ)

グローバルに活躍するエンジニアを紹介する本連載。今回はカインズの崔国(サイ・コク)氏にお話を伺う。コンピュータに夢中になった中国の少年は「閉じられたWeb」の世界でも新しいサービス開発を夢見ていた。

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インターンで学んだ、中国以外の世界

阿部川 そうだったのですね……。そうした状況にもかかわらずWebのサービスを立ち上げたい、それを進化させたいと思っていたんですね。どうやって勉強したんですか。

崔氏 本格的にWebサービスの勉強をしたのはKISという韓国の企業でインターンをしたときです。KISはネット印刷の会社ですが、大学のWebページや企業のコミュニケーションサイトを作ることもありました。そこで働き始めて「世界ではこういうふうに(ネットを)使っているんだ」と知りました。

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現在の崔さん

 大学での勉強も役立ちました。大学では国外のWebサービスについては学べませんが、Windowsに関する勉強はできました。ですから、それがWebサービスを学ぶ基礎になったのです。

阿部川 半年間のインターンの後、正社員としてKISに勤務されます。韓国の企業を選んだ理由は何ですか。

崔氏 1つ目は母が韓国で働いていたことです。私が飛び級で大学を受けることにしたのでその費用を稼ぐために母は韓国で働いていました。韓国は延辺に比べて給料が高くて、すごいときは10倍くらいの差がありました。中国の朝鮮民族が韓国に出稼ぎに行くことは半ば当たり前のようになっており、社会問題にもなっています。

 2つ目は中国に比べて韓国は「開かれていた」からです。韓国の企業なら国外の様子を知ることができますし、Googleや韓国の検索エンジン「Naver」などを使ったマーケティングも可能でした。

阿部川 KISで1年間、Webデザイナーとして働かれた後に来日されますね。

崔氏 はい。中国では出世するために学歴か技術が必要です。私は飛び級とはいえ高校を中退していますので、学歴とは認められません。じゃあ技術しかない、と考えました。

 では技術はどこがいいのかというと、米国か日本か韓国だろうと思いました。最終的に日本に決めた理由はスーパーコンピュータの「京」です。そんなすごいものを作れる日本の技術力に引かれたので、その勢いのまま「日本に留学します」と宣言し、KISを辞めたんです。

阿部川 いきなりいろいろなことを宣言しますね。お母さんはまた悲しんだのではないですか。

崔氏 母は「やりたかったら行かせるよ」と言ってくれました。父は反対しましたが、私は決意を変えませんでした。2011年3月のことでした。その年の3月11日に東日本大震災が起きていたので、反対する声は一層大きくなりましたが、私は「どんな天変地異があっても夢を諦めない」と宣言して日本に来ました。

阿部川 有言実行したわけですね。未曾有(みぞう)の災害でしたのでその意思を通すことも大変だったでしょう。大阪の日本語学校に入学されますが、学校の情報はどうやって探したのですか。

崔氏 学校を仲介する会社があったので、そこを通じて日本の学校の先生と面接をしたんです。当時私は日本語があまり話せなかったので、自己紹介と言っても「私は崔です」と話せるくらいでした。それでも「私は日本に技術を学びに行きたいです」と、一生懸命暗記して話しました。中国の給料で日本の学費を払うのは難しかったけれども、お母さんが助けてくれました。

日本に来たら、びっくりだらけ

阿部川 また、お母さん。心配させたら駄目ですよ。最初に日本に来たときはいかがでしたか。

崔氏 どこもきれいでびっくりしました。ドアが自動で開くのにもびっくりしました。タクシーのドアが自動で開くのにびっくりして、自動で閉まるのにもびっくりしました。

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日本語学校で勉強していたころの崔さん(左)

 3つ目のびっくりは交通ルールが逆だということです。日本は人が優先ですが、中国は車が優先でした。道路を渡るときは、車がいなくなるまでずっと待っていますし、車の運転手は待っている人を気にせず走っています。日本は運転手が止まってくれることにびっくりしました。

阿部川 びっくりだらけですね(笑)。大阪には何年いたのですか。

崔氏 7年くらいです。日本語を勉強しながらアルバイトに明け暮れていました。

 最初は回転すしチェーンで働きました。そこは全部機械でやるので日本語をしゃべれなくても大丈夫なんです。楽でしたけど、これでは日本語が話せるようにならないと考え、別のお店でバイトを始めました。

 次のバイト先である梅田のおすし屋さんは厳しくて、洗い場で何年か修行しないとすしは握れませんし、包丁を持つ(調理をする)こともできませんでした。仕方がないので自分で握って見るんですがそんなにおいしくない。でも店長が握るとおいしい(笑)。それからすしは個人店で食べるようになりました。

阿部川 そこでもびっくりすることはありましたか。

崔氏 関西弁です。何を言っているのか分からなくて。ずっと叱られている気がするのですが、本気なのか冗談なのかも分からなくて、困りました。でも頑張って5年ほど働きました。

「就職活動は自分が考えられることを全てやった」

阿部川 その後、2015年に大都というネット通販の会社に入社されます。

崔氏 大都に入社したのは、楽天やヤフーやAmazonに出店しているプラットフォームの勉強ができるからです。流通のことも学べるし、自分のWebデザインのスキルも発揮できると考えました。

 就職活動は自分が考えられることを全てやりました。「DIY FACTORY」というブランドをどうやって周知させるのか、何をやればいいのかという課題をクリアする必要がありました。私はワークショップを企画して、街を歩いている人にアンケートを取って一生懸命資料を作成しました。最終的に提出する書類はこんなに厚くなりました(5センチぐらいの幅を指で示す)。他の方は1枚2枚だったんですが。そこで「何者や」となって選ばれました。

阿部川 そういった努力は絶対に通じると思います。大都で思い出に残っているプロジェクトはありますか。

崔氏 API連携です。モールに出店する際には商品登録などをCSVファイルで登録しないといけないのですが、その作業をAPI連携にすることで、簡略化できないかと考えました。

 連携用のツールを探して「xml APIを使いたいんです」と提案しました。厳しいことを言われたり、毎日残業したりしましたが、最後までやりきりました。そのおかげでそれまでは午前中に登録したものは午後に対応するしかなかったのですが、夜中に登録したら朝から作業ができる。会社にとって本当にプラスになったと思います。

阿部川 なぜ、そんなに一生懸命になれたのでしょう。

崔氏 カスタマーサービスの人が大変かわいそうだったんです。1人当たり1日1000件ぐらいの問い合わせに回答しないといけない、私はそういう印象を持ったのです。その人たちの作業時間を技術で減らして、もっと別のところで力を発揮してもらいたいという気持ちでやりました。

阿部川 素晴らしい取り組みでしたね。

崔氏 ただ、運用が未熟で……。夜中に商品を登録できるので、夜中でも正しく登録できているか見守らないといけない。仕方なかったけれど、自分で作って自分で見守るのはかなり大変でした。せめて担当者があと1人いたらもう少し楽だったのに、と思います。

阿部川 そこでヒューマンエラーが起きてしまったら、何のためのIT化なのか、となりますからね。今ならRPAやAIなどを活用できそうですね。


 やりたいことがあると、居ても立ってもいられなくなる崔氏は、周りに宣言し、見事に有言実行を進めた。後編は、崔氏が日本でカインズに入社を決めたきっかけと、これからの展望について、そしてエンジニアのキャリアについて話を聞いた。

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