Windows Me(「ウィンドウズ ミー」)発売〜日本法人社長のカウントダウン〜IT Business フロントライン(7)

» 2000年09月25日 12時00分 公開
[三浦優子(コンピュータ・ニュース社),@IT]

 2000年9月22日(金曜日)午後4時、マイクロソフトが今世紀最後のWindows、「Windows Millennium Edhition(Windows Me)」を発売した。「Windows 2000 Insider」の中でデジタルアドバンテージの小川誉久氏のご指摘の通り、どうもマイクロソフト側に力が入っていないんじゃないか……という雰囲気は漂っているが、それでも、発売初日には、秋葉原は通常の金曜日の2倍の人手、大阪・日本橋、名古屋・大須でもそこそこの集客を得たようだ。

 しかし、今回は昼間の発売ということもあり、イベントはほとんどなかった。正直なところ、「ちょっと寂しい」という感を拭いきれない。特に阿多親市社長が、発売開始時点で秋葉原に姿を見せなかったことが、異常に寂しい。阿多社長・・・・なんで来てくれなかったんですか?

 今世紀最後ということで、ちょっと感傷的に「Windows」というOSを振り返ってみたい。

 思い起こせば、Windows 95から始まり、Windows 98、Windows 2000、そして今回のWindows Meと4回の販売カウントダウンが行われた。理性的に考えれば、「なんで、OSを発売するだけのことで、お祭り騒ぎをせにゃあかんのや!」と突っ込みを入れたくなるのだが、パソコンおよびWindowsの存在を、広く一般の人に知らせるという広告的な効果はものすごくあったのではなかろうか。今、パソコンが売れている要因の1つは、間違いなくWindows発売のお祭り騒ぎにあると思う。

 いや、どうもWindows発売のお祭り騒ぎの肩を持ちたくなるのは、個人的な理由からかもしれない。実はWindows 95以来、過去3回の発売カウントダウンのときには、私は特命を帯びて仕事をする……というと、格好いいのだが、私の所属する媒体の編集長からは「(私のことを)取材者の頭数には入れられない!」という冷たい言葉を浴びせられるくらいだったから、ほとんど趣味の世界ともいえるのだが、私は日本法人の社長に張り付いていたのであった。

 4回の発売時それぞれ、当時の社長がどこで、何をして発売直後の時間を過ごしたかは、下記の表の通り。(なお、表の中の肩書きはすべて当時のもの。)

●Windows 95(1995年11月23日午前0時発売)
  成毛真社長、古川亨会長が午後11時頃から、東京・秋葉原の販売店を分担してあいさつ回り。カウントダウン時は、成毛社長はラオックス ザ・コンピュータ館でくす玉割りに参加し、その後、午前1時までザ・コンピュータ館で過ごす。
Windows 98(1998年7月25日午前0時発売)
  成毛社長は、精力的に販売店をあいさつ回りし、テレビニュース用インタビューなどにも応じる。カウントダウンをラオックス ザ・コンピュータ館で行ったあと、マイクロソフトの事務局として借りていた九十九電機の社員休憩室でハードメーカー首脳などと祝杯を挙げる。ちなみに、古川会長は米国滞在中、現社長の阿多親市常務は、九十九電機社員休憩室で過ごす。
Windows 2000(2000年2月18日午前0時発売)
  成毛社長(当時)、阿多常務(当時)はカウントダウンなど一切の公式行事に参加せず、お忍びで発売後の秋葉原に姿を見せ、マイクロソフトの社員待機場所となっていたラオックス ザ・コンピュータ館地下の喫茶店でWindows 2000発売の乾杯を行う。
Windows Me(2000年9月22日午後4時発売)
  阿多社長をはじめ、役員は一切姿を見せず!

 こうした事実に加え、そのときの些細なエピソードを思い出すと、マイクロソフトの戦略やら、経営陣の思惑やらが透けて見えるように思う。

 Windows 95のときには、成毛社長(当時)に「夕べは眠れなかったとか、食べ物が喉を通らないなんてことはなかったんですか?」と質問したら、「そんなことあるわけないだろう」とあっさりいうので、ちょっと拍子抜けしたような気持ちがした。でも、販売店のひとつひとつにあいさつ回りをし、発売後、秋葉原に人があふれかえった様子を売り場が閉められていたラオックスの店内から見て、「すごいなあ!」と本当にうれしそうな表情をしてみせたことや、「おい、ちょっとビルに電話をしてみろよ」と米国に電話をさせた(ちなみに、米国では早朝にあたる時間だったため、ビル・ゲイツ氏はまだ出社していなかった)……なんてことを思い出すと、成毛社長以下、かなりの緊張と興奮で、Windows 95発売というイベントにのぞんでいたことが今なら分かる。

 社会現象ともいえるお祭り騒ぎに、販売店の幹部もハードメーカーの幹部も、本当にうれしそうだったことを思い返すと、さながら青春の1ページ……のような気さえする。

 Windows 98のときには、「まさかWindows 95のときのように人は集まらないだろう」との予測があったものの、ふたを開けてみれば、やはりお祭り騒ぎ。マイクロソフトのスタッフも確かな手応えを感じていたようだったし、販売店は「これで売れ行き不振が解消される」と本当にうれしそうだった。現在の日本法人の社長である阿多氏は、営業担当役員という立場だっただけに、この夜の成功がことさらうれしそうで、「一人になったら、泣いちゃうかもしれない」と満面の笑顔でつぶやいていたことが忘れられない。

 Windows 2000は、パッケージの発売は世界の中で日本が最初ということで、米国からのテレビクルーが取材に来ていたのだが、なんといっても成毛社長がカウントダウンに姿を見せなかったことに大きな違和感を覚えざるを得なかった。その後、ほどなくして成毛氏社長退任が決定したところをみると、Windows 2000発売時点で、すでに成毛氏の心中は決まっていたのだろうと今になって思うのである。

 また、阿多氏が部下をねぎらい、「お前たち、本当によくやった」と声をかけていた様子を見ると、普段クールに見えても、実は体育会系の特質の持ち主であることが本当によく表れるのは、Windows発売の夜なんだなあ……とあらためて思ったりもしたのであった。

 しかし、残念ながら、今回は阿多社長は姿を見せなかった。公式には、「社長が来ることはありません」といわれていたので、分かってはいたのだが、Windows 2000のときには、「来ない」と言っていたくせに、秋葉原を訪れたという実績もある。さらに、「発売日によそで静かにしているなんて性分じゃないもん」と阿多社長が言ったのを聞いていたので、今回ももしかすると……と思って、期待していたのだが。

 実は発売前日の2000年9月21日(木曜日)、米本社のスティーブ・バルマー社長が来日し、富士通と共同で記者会見を開いた。このため、阿多社長はバルマー氏に同行して、顧客回りとやらで時間をとられていたようだ。「もしかして、バルマー氏、秋葉原に来る?」という噂(憶測?)も一瞬だけ流れて、「そうなると、マイクロソフト、Windows Meを本気で売るっていう証明になる 」なんて声もあったのだが、発売当日の午後にはバルマー氏は東京を発ったようだ。残念……。

  なんだか、社長ウォッチャーとしては拍子抜けしたWindows Me発売日なのであった。

Profile

三浦 優子(みうら ゆうこ)

1965年、東京都町田市出身。日本大学芸術学部映画学科卒業後、2年間同校に勤務するなど、まったくコンピュータとは縁のない生活を送っていたが、1990年週刊のコンピュータ業界向け新聞「BUSINESSコンピュータニュース」を発行する株式会社コンピュータ・ニュース社に入社。以来、10年以上、記者としてコンピュータ業界の取材活動を続けている。

メールアドレスはmiura@bcn.co.jp


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