神崎を絞り上げてギガバイトでの出来事を聞き出した大塚は、法務部長の赤城雄介を誘って昼食に出掛けた。
赤城は大塚の大学の3年先輩だが、司法試験浪人を2年やった後にグランドブレーカーに入社したので、大塚とは同期入社となる。
会社法務を取り仕切る一方で、西村総務部長の傘下に組織されたコンプライアンス推進室のメンバーでもあった。
大塚は、赤城の幅広い法律の知識と常に冷静沈着でバランス感覚の取れた判断力を尊敬しており、同期入社の仲間というよりも、いわゆる“頼りになる先輩”タイプだ。
大塚は、大学あるいは人生の先輩として仕事上もプライベート上でも何かと頼りにしていた。今回の件でも、間違いなく大塚にとって最もふさわしい相談相手だ。
大塚 「……ということで、神崎をとっちめて聞き出したんですが、要するに神崎のやつ、居酒屋で大声でソルティシュガーの自慢話をして、それをスマートさんの江川とかいうやつに聞かれたと、いうことらしいんですよ」
赤城 「神崎くん……ねぇ。彼、素直でいいやつだよね」
大塚 「素直なのはいいんですけど、能天気なのには困りもんですよ。居酒屋で社内情報を大声でしゃべるなんて」
赤城 「確かに、それはまずいよね」
大塚 「でしょ。だから、きつ〜くしかっておきましたよ。……それでですね、赤城さん。オレ、神崎をしかりながら思ったんですよ。オレはあいつの不注意をしかったわけなんですけど、この問題って、単に不注意とかいうことではなく、コンプライアンスに関係する問題じゃないかって思ったんですよ。そうだとしたら、もっと違ったしかり方があるじゃないですか。ただ……」
赤城 「ただ?」
大塚 「居酒屋で大声で話すのが、どういうわけでコンプライアンスの問題になるのか、そこんところがいまいちはっきりせんのですよ。ものの本によれば、コンプライアンスとは法令遵守である、なんて書いてあるし、居酒屋で大声で話すのが法令に違反するとも思えないし……。そこんとこを教えてもらえませんか?」
すると、赤城はお茶を一口飲んでから説明を始めた。
赤城 「では、こう考えると分かりやすいんじゃないかな。コンプライアンスとは、ステークホルダーの信頼を得るために、やるべきことはやる、やるべきでないことはやらない、という意識を持つことなんだ。ステークホルダーってのは、会社の利害関係人、つまり、株主、顧客、従業員、取引相手のことだ。その人たちからの信頼を維持向上させるのが、コンプライアンスなんだ」
大塚 「ふむふむ……」
赤城 「じゃあ、株主はどういう会社を信頼すると思う?」
大塚 「そりゃ……、もうけを出して配当してくれる会社でしょう」
赤城 「そうだ。株主はもうけてもらうためにお金を出資している。会社はその出資金を使って、もうけるために必要な資産を入手して商品を作って、それを売る」
大塚 「そうそう」
赤城 「もうけるために必要な資産には、原材料とか、設備だとか、従業員だとか、いろんなものがあるよな。そのうちの1つとして、情報ってものも重要な資産だということは分かるだろう?」
すると、大塚は一瞬考え、こう答えた。
大塚 「あ、そうか! ソルティシュガーはわが社がもうけるために必要な情報資産ということですね」
赤城 「そうだ。実際には、神崎くんが考え出したアイデアだけど、理屈でいえば、株主の出資に基づいて作り出された資産だということだ。だから、ソルティシュガーの内容を居酒屋で大声で話すということは、重要な会社の資産を漏えいすることであって、株主の信頼を維持するためにやるべきでないことをやってしまったというわけだ。従って、法令違反ではなくても立派なコンプライアンス違反となる、ということだよ」
大塚 「なるほど。よ〜く分かりました。でも……」
赤城 「ん?」
大塚 「その理屈は分かりましたけど、人間、理屈だけで行動をガラっと変えることは無理ですよねぇ?」
赤城 「そこなんだよ。モラルの問題だ。お前が心配してるのはそれだろう? そう、それが一番難しい。その人にモラルが欠けていれば、いくら法令を詳しく知っていても、コンプライアンス違反を起こすものなんだ。しかも、法令は教えることができるけど、モラルはそれができない。コンプライアンス推進室でも、その点が一番の課題になっている。おそらく、こうすれば社員のモラルは向上します、っていう処方箋(せん)はないのかもしれない。でもな、あきらめちゃだめだ。事あるごとにモラルを説いて聞かせれば、神崎くんだっていつかは分かるかもしれないじゃないか……」
大塚 「そんな生やさしいやつじゃないような気がするんですけどね。もしかしたら、モラル以前の問題だったりして……」
赤城 「でも、だからといって何もしなければ、何も変わらないじゃないか」
大塚 「そりゃあ、そうですけど……」
赤城 「まぁ、頑張れよ!」
大塚 「えぇ、頑張ってみます」
そのころ神崎は、気分転換も兼ねて、石原靖に電話をかけていた。
神崎 「石原? そろそろ飲み会やらないか。……ああ、……あぁそう。オーケー、じゃあさ、神楽坂にいい店を見つけたから、そこに行こうよ。それとさ、今日、上司からしかられちゃったからさ、居酒屋で飲むときは個室を予約するぜ!」
【次回予告】
飲み屋で大声で会話をしたため、ライバル会社に画期的なアイデアを盗まれてしまった神崎。次回は、この話の中に「どんなコンプライアンスの問題が潜んでいるのか」を、筆者が分かりやすく丁寧に解説します。なお、次回は3月13日に掲載予定です。お楽しみに。
▼著者名 鈴木 瑞穂(すずき みずほ)
中央大学法学部法律学科卒業後、外資系コンサルティング会社などで法務・管理業務を務める。
主な業務:企業法務(取引契約、労務問題)、コンプライアンス(法令遵守対策)、リスクマネジメント(危機管理、クレーム対応)など。
著書:「やさしくわかるコンプライアンス」(日本実業出版社、あずさビジネススクール著)
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.